東浩紀/批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役
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※写真はイメージ(gettyimages)
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 批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。

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 敗戦から75回目の8月が来た。毎年この季節が来ると考えるのが、加害と被害の関係である。

 先の大戦で日本がアジア諸国に大きな損害を与えたことは明らかである。けれども加害・被害は厄介な概念でもある。単純な殴る蹴るのケンカならともかく、多少複雑な事例になると加害者に加害の自覚がないことも多い。加害行為は強制されたもので、自分こそ被害者だと感じていることすらある。

 実際それこそが戦後日本が直面してきた困難である。我が国はたしかに戦争をした。侵略もした。けれども列強の圧力に長く苦しめられ、無差別空襲や原爆を体験したのも事実だ。日本だけが一方的に加害者と名指されるのは腑に落ちない。そう感じている日本人はいまも多いだろう。そして日本人がそう感じているかぎり、隣国は決して許してくれない。

 それこそ日本人の反省が足りないということではないかと指摘するのはたやすい。実際その側面はある。

 けれどもそこにはもっと原理的な問題もある。加害と被害の対立は便利である。しかしそれはあくまでも具体例の分析で用いるべきもので、過度に一般化できるものではない。すべての悪が加害と被害に分解できるわけはないし、まして複雑な近現代史がそんな対立で語れるはずもない。にもかかわらず、ある時期以降、日本の戦争責任をめぐる語りは国内外ともにどんどん抽象化し、政治ショー化していった。そこに違和感を抱くことは、けっして問題の矮小化を意味しない。

 国家や民族という大きな主語を立てて、加害側か被害側かを論じても本当は意味はない。重要なのは、広島・長崎の被爆者にせよ沖縄戦の犠牲者にせよ従軍慰安婦にせよ中国大陸の虐殺犠牲者にせよ、個々の事例で実在する被害者あるいはその遺族に寄り添い、彼らの経験を後世に伝えることである。

 戦争をめぐる議論が喧しく語られる8月こそ、それら喧騒から距離を置いて、歴史書を静かにひもとくのもよいだろう。そもそもヨーロッパの哲学には、漢字の「加害者」「被害者」に相当するような便利な対立概念は存在していないのだ。

東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数

AERA 2020年8月24日号