でも、今度気がついたのですが、文章を書くより絵の方がわかり易(やす)くて観(み)る方も楽ですね。絵は一目見た瞬間、好きか嫌いか、自分の感覚が動きますので、観る者の観賞感覚によって、その場で、その絵の魅力度が決まります。具体的な絵ばかり描いてきた我々の祖先たちの前に、突然、シュールな絵が現れた時の愕(おどろ)きはどうだったのでしょう。人物の絵にしたって、写楽の首が現れた時の浮世絵の世界のびっくり仰天さは想像しても愉(たの)しくなります。写楽は、私と同じ徳島の出だそうです。
私は小説家になりたかった若い頃、ひそかに写楽を小説で描こうとして、なけなしのお金で資料の本を集めていました。そこへ小田仁二郎が現れて、私の下宿の部屋に来るなり、みかん箱をつみ重ねた本棚の写楽の資料に目をとめ、貸してくれと、すっかり家に持って帰りました。
そして生まれたのが小田仁二郎の「写楽」です。
「触手」という前衛的な小説で、世に認められた小田仁二郎は、その後、人々の期待にそうような作品は書けずにくすぶっていました。新潮社の名物編集長の齋藤十一氏が、私たちの同人誌に書かれた「写楽」に目をつけ、全く仕事のなかった小田仁二郎に仕事を与えました。
それが何とまあ、週刊新潮の連載小説で時代物という条件でした。断るだろうと私は思っていましたが、彼はそれを引き受けました。一人娘が、大学へ行く年頃になっていたのです。それまで無収入の彼の家庭は、夫人のミシンの内職で、どうにかつないできていました。
週刊誌の小説の原稿料は、想像を絶する莫大(ばくだい)なものでした。
一度その路(みち)を歩きだせば、帰ることができません。
およそ性に合わない時代物小説に連日うなされながら、彼の地獄の日がつづきました。
私に小説を書くすべを教えてくれた恩人の彼との仲を破ったのは私でした。
彼に逢(あ)わなければ、私は小説家になれていなかったと思います。
彼の娘は父と同じ大学を出て、雑誌社に勤め、有能な記者になりました。私の連載エッセイの記事を毎月取りに来るようになりました。
彼とわかれたあとも、彼女は表情を変えず、私の原稿を取り続けに来ていました。
彼は舌ガンで死にました。一切の本や原稿は、いつの間にかすべて焼き捨てられていたそうです。
ヨコオさん、今日は思いかけない話になりましたね。
では、また。
※週刊朝日 2020年9月25日号