4月7日、首相の安倍晋三(65)は緊急事態宣言を出す会見で、「最低7割、極力8割削減」と幅をもたせた。西浦は「あくまで8割。すぐに休業補償をしてハイリスクの場所を閉じてください」と主張する。「8割おじさん」の誕生である。

 日本中の街から人影が消え、経済は真っ逆さまに落ち込んでいった。

 4月15日、西浦は記者意見交換会で「まったく感染対策をしなかったら、約85万人が重症化し、その約半分(約42万人)が死亡する」という被害想定を発表した。即座に激しいバッシングが起きる。

「国民への脅し、扇動」「現実離れした数理モデルは根拠が乏しい」「発言の責任をとれるのか」。官房長官の菅義偉(71)は「推定死者数は、政府としては公表していない」と火消しに走る。厚労省の説明によれば、非公表の理由は国民が推定値に怯え、パニックになるからだという。接触8割削減の方針は「過大な制限」と集中砲火を浴びた。政策決定したのは政府なのだが……。ついには「脅迫状」が大学に送りつけられる。

 札幌の自宅で、妻で医師の知子(45)はテレビに映った夫を見て、「まずいな。相当ストレスをためている」と気をもんだ。そして、洗濯した着替えを送る宅配便の箱にそっとジョギングウェアを入れた。体は正直だ。西浦は、医大生時代、体脂肪率を10%以下に保ち、トライアスロンのアイアンマンレースに何度も出場している。卒業後はマラソンに切り替えた。今年1月に出場したハーフマラソンは2時間少々で完走した。毎日、自宅から北大まで10キロのランニング、もしくは昼休み1時間のバイク漕ぎで体調を整える。体重は92~93キロをキープしていた。しかし厚労省庁舎と新橋のホテルを往復する日々である。「ストレスがたまると食べる」ことを知子は知っている。シャツのボタンは、いまにもはちきれそうだった。

 5月上旬、1日の新規感染者数は全国合計で二ケタに減り、8割削減の効果が表れる。西浦は、妻の「走って」という無言のメッセージを受け、皇居周回コースに出た。相変わらず、批判的なメディアもあれば、ツイッターに「#西浦寝ろ」のハッシュタグができて応援メッセージも寄せられる。西浦の予測を参考に重症者用ベッドと医療従事者を確保し、病院の医療崩壊を食いとめた医師からは、「ありがとう。今回ばかりは自分が殉職するかと思った。助かったよ」と感謝された。

 感染症の数理モデルの開拓者は、賛否の強い風を受けながら皇居の周りを黙々と走った。

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複雑さに耐えて判断するしかない