

元朝日新聞記者でアフロヘア-がトレードマークの稲垣えみ子さんが「AERA」で連載する「アフロ画報」をお届けします。50歳を過ぎ、思い切って早期退職。新たな生活へと飛び出した日々に起こる出来事から、人とのふれあい、思い出などをつづります。
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今夏最大の思い出の一つは、ノーエアコン10年目にして初めて連日の「打ち水」を実行したことである。窓を開けて外のベランダに水をまくだけなんだが、検索したところ、蒸発する際に表面の熱を奪うので気温が若干低くなり、家の中に涼風が入ってくる……そうだ。いっちゃあ何だがなんとも頼りない理屈。なのでどうにも半信半疑で実行に至らなかったんである。
だが折からの猛暑に重い腰を上げた。とはいえ実際に涼しくなったかどうかは比較対象がないので全くわからない。なので、たとえミクロの単位であっても効果ゼロということはないはずと信じて、水をジャッとまいては床にごろりと横になり、はて本当に涼風が来るかどうかを手ぐすね引いて待つのが習慣になった。
これが、なかなかの体験であった。
いくら打ち水をしようが、風って吹かない日はもうほんと頑固に吹かない。となると涼風もクソもない。でもそう思って諦めていると、不意に一陣の風がふわんと全身を包むのだ。そのハッとする快感といったら! なので否が応でも集中する。すると次第に、どんな僅かな空気の動きも「風」と認定できるようになった。さらには、お、来るぞ、という気配までわかるようになってきた。10メートル向こうの空気の動きを感じるのだ。もはや森の動物レベルである。
こうなってくると、打ち水はもう完全に我が最大の娯楽と化した。気温を下げる効果があったかは依然不明だが、そんなことはもうどうでもよかった。
で、当然のことながら、秋が近づくにつれ素晴らしい風が吹く回数は急速に増え、これはとんでもない僥倖と喜んで今後の展開を楽しみにしていたのである。
ところがある日突然、この娯楽は終止符を打ったのだ。ピューピューと吹きまくる風は極楽を通り越して皮膚に差し込み、喉が痛くなって目が覚めた。慌てて布団をかぶり風をよける。あの極楽は過酷な暑さの中だけに存在していたのであった。人生はそううまくは進まないのである。
稲垣えみ子(いながき・えみこ)/1965年生まれ。元朝日新聞記者。超節電生活。近著2冊『アフロえみ子の四季の食卓』(マガジンハウス)、『人生はどこでもドア リヨンの14日間』(東洋経済新報社)を刊行
※AERA 2020年9月28日号