だから、私はオルテガとともに「文明」の側に立つ。「文明の側に立つ」というのは異論異説が共生できる場を守るということである。それが「公共的」にふるまうということのいちばん根本にあることだと私は思う。
政治家がどうして権力を私物化するようになったのか。オルテガ風に言えば、どうして政治家は「野蛮」になったのか。それは「他者と共生する」ということの大切さを忘れたからだ。「理解も共感も絶した他者」とでも私たちは場を共有し、折り合いをつけ、場合によっては協働して、何か価値あるものを創り出すことができる。それが「文明」というものだ。
繰り返すが、「公人」とは「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことができる人間のことである。少なくとも、統治にかかわる人間はそういう理想をめざすべきだと思う。
でも、公人として生きることはむずかしい。一つには倫理的な痩せ我慢を強いられるからである。「李下に冠を正さず 瓜田に履を納れず」という古諺がある。公人はすももの木の下では冠の紐が緩んでもかぶり直してはいけない。瓜の畑では靴が脱げても履き直してはいけない。さぞや不快ではあろうが、公人はその不快に耐えなければならない。というのは、公人においては「正しくふるまうこと」と同じ位に、あるいはそれ以上に「正しくふるまっているように見えること」が重要だからである。「よそ眼には罪を犯しているように見えたかもしれないが、実は犯してない」という言い訳は公人には許されない。公人は「推定有罪」なのである。それが嫌だという人はそもそも公職をめざすべきではない。
もう一つの困難さは、全国民の利害を等しく配慮して政治を行った場合、全国民の不満の程度が均されるようなところが「おとしどころ」になるということである。だから、公共に配慮した場合、「全国民がまったく同じ程度に不満顔であること」が比較的ましな成果だということになる。
だから、支持者の熱狂や喝采を求めて政治家になった人間は公人としてふるまうことを嫌うようになるのである。それよりは自分の支持者の要望を100%満たして、彼らが欣喜雀躍する姿を見ている方が気分がいい。反対派の要望には「ゼロ回答」で応じて、彼らが屈辱感に打ち震えるのを見る方が気分がいい。