ひとまず現状を夫に話し、今後のことを話し合った。両親を看る人間は一人娘の私しかいない。幸い、日頃から親に関して理解があり、子どもがいないこともあって、一年の半分ずつを日本とトルコで暮らすことを快諾してくれた。

■  まるでマトリョーシカ?! 箱の中に空き箱がギッシリ 

 長く住んだ家にはモノがたまる。戦争で物不足を経験した親世代には、もったいないからと紙袋や包装紙など何でも大切にとっておく人が多い。積まれた段ボールを開けたら、几帳面な母の手で箱の中に箱、その中にまた箱と民芸品のマトリョーシカばりに空き箱がギッシリ詰められており、思わずウーンとうなってしまったほどだ。

 夫の協力のもと、実家再生のための時間を確保したものの、家事と両親のケアの同時進行となると、とても期間内に全部は終わらないだろうというのが正直なところだった。実家はそれほどの窮状となっていた。そもそも、私が海外にいる間、父ひとりに何もかも任せること自体が大きな不安だが、そこはひとまず脇に置くことにした。

「なんとか出来るところまでやるしかない」

 動線が極端に悪いと足腰の弱った高齢者はつまずきやすく、非常に危険だ。まずは誰が見てもごみに見える不用品の処分から着手し、生活スペースの確保に専念することにした。親へ目配りしながら家を清潔に。毎日コツコツ積み重ねれば少しずつ効果が出てくるはずだ。

「それは後で使うからとっておいて。捨てないで」

 困ったことに母はモノを捨てることを極端に渋るようになり、仕分けしていると横に来て作業に口を出した。そのたびに手が止まってしまう。

 認知症の進行を遅らせるため、主治医の指導のもと、父に付き添われて買い物がてら毎日の散歩が母の日課となった。

 そのため、散歩の時間は片付けが最もはかどる貴重なチャンスだった。一回の仕分けでプラごみが6袋に及ぶことも。夕食の支度までの時間を黙々と作業に費やし、少しずつ確実に不用品を減らしていった。

 私は両親の世代ではかなり遅く生まれた子どもで、母より9歳上の父は当時87歳。体も頭も健康だったが、5年前には初期の喉頭がんを患った病歴がある。そんな父に身体的負担をかけたくなく、私がいる間は話し相手や散歩の同行など母の見守りのみをお願いしたが、家の雰囲気が明るくなり、私の片付けもはかどって一石二鳥だった。

「あなたがいると家がきれい」

 片付けが進むと、母は笑顔で私にそう言った。私も努力が報われたように感じて、うれしくなった。元来きれい好きの母は満足し、モノの処分に抵抗することが減っていった。

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