北野:うちのきょうだいはみんな理系で、おれも学生の頃は数学ばっかりやってたんだけど、大学に入ってジャズ喫茶なんかに行くと、やれマルクス・レーニンの社会主義だ、サルトルの実存主義だなんて話を若い奴らがしてるわけ。当時はそんなこと全然知らなくて、そこで初めて「思想」というものに触れて、ちょっと衝撃を受けたんだ。それまでさんましか食ったことない子どもが、いきなりデパートのレストランに連れてかれてハンバーグを食わされた、よくわからないがすごいらしいぞ、そんな感覚があったね(笑)。

 当時、おれが通ってた明大には「社学同(社会主義学生同盟)」って学生組織があって、おれも参加したんだ。でも4年生の後半になると、今までヘルメットかぶって角材振り回してたやつらが、急にスーツを着だして「広告代理店に決まった」とか「家業を継ぐことになりまして」とか言ってやがんの。じゃあ、今までの活動は何だったんだって(笑)。遊びだったのかよって、がっくりきちゃった。

――大学に通う意味を見いだせなくなった北野は、その後、ジャズ喫茶のボーイやタクシー運転手などアルバイトに明け暮れる。無為な日々を送るなかで、いつしか演芸の道を志すようになった。

北野:なぜ演芸かって言うと、おれが育った足立区島根町ってとこは、日常が落語の世界なんだよね。そのときは「落語なんてもう古い!」と思って芸人になったけど、今思えば、どうして落語家にならなかったのか、自分でも不思議なくらい。やっぱり自分が育った環境から受けた影響ってのは大きくて、いまだに抜けていないね。

――25歳のとき、浅草にある「フランス座」のエレベーターボーイに就任。同劇場の座長である深見千三郎に弟子入りし、本格的に芸能の道を歩み始める。当時、何よりも気がかりだったのは母親のことだった。だが、大学をやめて芸人になると決意したとき、「空がとても広く感じられた」という。

北野:その頃、浅草で人気のあった漫才師でも、どこが面白いんだと思うのもいれば、深見の師匠やコント55号なんかはすげえと思った。面白いものと面白くないものを見極める目は、最初からあったんだろうね。まあ実際は、見るのとやるのとではまるで違って、それから結構ひどい目にあったんだけど。でも、それも舞台に立ち続けていれば、いつかモノにできるっていう自信があった。

 一生懸命大学に入れてくれたおふくろには悪いけど、工学部の学生でいるよりは、演芸の世界に身を置いたほうが絶対いいと思ったんだ。それで今まで積み重ねてきたものは、いったん全部捨てた。そのときは晴れ晴れとした気持ちだったね。

(ライター・澤田憲)

AERA 2020年11月16日号

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