宇宙から飛来する素粒子「ニュートリノ」の観測に世界で初めて成功し、2002年にノーベル物理学賞を受賞した東京大学特別栄誉教授の小柴昌俊さんが11月12日に亡くなった。94歳だった。
少年期には音楽家か軍人を目指したという小柴さん。旧制中学時代にポリオ(小児まひ)にかかり夢を諦めざるを得なくなったが、入院中に見舞いに来た担任の先生から渡されたアインシュタインらの『物理学はいかに創られたか』を読んだことがきっかけとなり、研究の道を志した。
1970年に東大教授に就任。83年に岐阜・神岡鉱山の地下に自ら設計した観測装置カミオカンデを完成させた。ノーベル賞受賞につながった、超新星爆発からのニュートリノを初めて観測したのは、東大を退官する1カ月前だった。
「小柴さんはカミオカンデ建設のとき、今後世界が注目するであろう実験施設に町名の『神岡』を入れることに強くこだわりました。さらに、住民票を東京から神岡町に移し、わずかかもしれないが住民税を払い、町のお役に立ちたいとおっしゃってくださったんです」
そう話すのは、小柴さんがノーベル賞を受賞した年に神岡町(現飛騨市)の町長になった船坂勝美さん(79)だ。
「神岡町は金属鉱山の町。当時は公害のこともあって、住民は『神岡町出身』とは言いづらい状況でした。でも、小柴さんのノーベル賞で『カミオカンデの町』として知られるようになり、一気に『世界の神岡』になった。その結果、町民の意識が百八十度変わり、神岡町を誇りに思うようになりました」(船坂さん)
ノーベル賞を受賞しても、小柴さんはとてもきさくで、穏やかで、気取ることもない、“普通の人”だったと船坂さんは振り返る。
また、小柴さんは講演会やイベントなどで、「志を高く持って、努力を続ければ必ず報われる」と、周囲を勇気づけていた。
「小柴先生の言葉や姿勢が町の人の意識を変えてくれて、町に活気が戻っていった。先生は宇宙に帰って星になっても、私たちを見守ってくれていると思います」(同)
(本誌・鮎川哲也)
※週刊朝日 2020年11月27日号