金川、寺田に次いで、若くして戦力外になったのが、安原政俊(98年巨人4位)、川添将大(同中日5位)、高橋一正(同ヤクルト6位)、丹野祐樹(同ヤクルト7位)、松比良平太(同近鉄7位)の5人。NPB在籍は4年だった(高橋はその後、社会人の日立製作所で3年間プレー)。

 現役引退こそ早かったが、今でもヤクルト球団に在籍しつづけているのが丹野だ。

 仙台高時代は、エースとして宮城県大会準決勝で仙台育英高、決勝で東北高の2強を相次いで撃破し、学校創設59年目で初の甲子園出場を実現した。

 甲子園では、初戦で準優勝校の京都成章高に7対10で敗れたが、最速140キロ右腕は、高校生投手中心のドラフト戦略を展開したヤクルトの目に留まり、愛工大名電高の石堂克利(1位)、旭川実の牧谷宇佐美(2位)、明徳義塾高の2番手で右横手投げ・高橋(前出)とともに入団した。

 4年目の02年、イースタンで自己最多の42試合に登板し、2勝4敗1セーブ、防御率2.56の好成績を残したが、オフに同期の高橋とともに戦力外通告を受ける。

 高橋同様、社会人でプレーを続けることが決まりかけた矢先、ヤクルトから打撃投手としての残留を打診され、迷った末、現役を引退して、プロのチームに身を置く道を選んだ。

 12年間、1軍に帯同して打撃投手を務めたあと、14年からは球団職員としてユニホームなどのクリーニングを担当。「今の自分は、野球の現場には携われないけど、“プロ野球”という仕事の世界に携われている。そういう仕事に就けているというのは、本当に幸せだと思います」(矢崎良一著「松坂世代、それから」インプレス)と語っている。

 丹野と同じく4年で現役生活を終えた松比良も、近鉄、楽天で12年間ブルペン捕手を務め、15年から2軍用具係に転身した。

 NPB在籍8年と、けっして早い引退ではないが、高校時代から松坂のライバルの一人だった明徳義塾高の左腕・寺本四郎も、当時を知るファンにとっては、“早く引退した”イメージが強いはずだ。

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今も記憶に残る甲子園での激闘