「私は怒りの塊みたいな子だったと思います」

 訓練中はいつも母の顎に頭突きをすることばかり考えていた。想像の中で、リハビリ施設にビームを身体から発して爆破。そんな強い怒りと同時に、「あきらめのような気持ちもあった気がします」。

 父親の一郎(73)は寡黙で穏やかな人だった。父によると、「私の役割はできるだけ普通の子と同じような体験をさせてあげること。散歩に連れていって草や昆虫をさわったり、庭に砂場を作って遊んだり。五十音の絵を描いて貼っておくとよく見ていて、いろんなことに興味をもつ賢い子でしたね」。

 両親は幼稚園に通わせた後、養護学校ではなく、友だちが通う公立小学校へ行かせたいと願う。親の付き添いを条件に入学を許可され、毎朝、母と二人で登校した。クラスの子たちは一緒にできる遊びを交え、何かと世話をしてくれる。放課後は谷の家が子どもたちの遊び場になった。

 中学へ入ると、電動車椅子に乗り始めた。それまではちょっと移動するのも人手が必要だったから、放っておかれるといつまでも同じ場所にいるしかなかった。だが、電動車椅子に乗ると、屋外も一人で動ける。コントローラーに手をかけ、ジョイスティックを前方に倒すと、車椅子と身体が一体となって前へ進んでいく。見える風景が変わり、時間の流れ方も速くなるような気がした。

 中学時代から熊谷は数学の世界に惹かれていった。頭の中に座標軸を思い浮かべれば、自由に創造の世界で遊ぶことができる。県下でトップの成績をとり、担任教師の勧めで高校は地元の進学校へ入学。数学を学びたいと東京大学を志望するが、母に反対された。十数年間のリハビリの成果は空しく、トイレや入浴、着替えなど身の回りの介助は親任せ。高校まで母の付き添いも必要だったから、近くの大学にしてほしいと頼まれるが、「親元にずっと居てはいけないと思っていました。親だけを頼っていたら、両親亡き後、自分はどうなってしまうのだろうという不安があったので」(熊谷)

 背を押したのは父だった。熊谷は市役所に勤める父から先輩障害者を紹介され、自立して生きる姿を見た。父は、「息子が望むならば絶対トライさせてやりたい」と、東大合格が決まると大学近くで改装できる8畳のアパートを見つけてくれた。熊谷は実家を出て、一人暮らしを始めるが……。

(文・歌代幸子)

※記事の続きはAERA 2021年2月1日号でご覧いただけます。

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