「子どもを数カ月あるいは1年単位で診ていると、びっくりするほど大きく変わることが多いのです。本人が何かを発見する瞬間があり、社会の成り立ちのようなものや自分の内面などに気づくときに、その子の育ちがぐんと加速する。最初は小さな世界だけを見ていたけれど、視界が開けていくように見晴らしのいいところへ上がっていくのです」

 それは、谷が歩んできた道と重なり合う。自分の「障害」と向き合い、何を発見したのか。その人生は強烈な「リハビリ」の記憶から始まる。

 山口県で生まれた熊谷は生後まもなく高熱を発し、一命はとりとめたものの脳性まひと宣告された。医師に「脳の損傷が原因で、イメージに沿った運動を繰り出すことができない状態」と説明され、母が探し当てたのがドイツ発祥のリハビリ法だ。子どもに所定のポーズを取らせ、特定の部分に適切な刺激を与えると、全身に運動反応が繰り返し引き出される治療法。7カ月から始まった。

「押されるのが痛かったのです。ストレッチもするけれど、私の身体はどんどん緊張して硬くなり関節が曲がってしまう。曲がった膝を力ずくで伸ばすようなこともされます。お手本通り動けないと叱責されるという心の痛みもありましたね」

 家では1時間ほどの訓練を4回行うのが日課。痛みに耐えかねて泣き叫んでも、母はやめようとしない。1970年代当時は早期にリハビリすれば「9割以上の脳性まひは治る」といわれた時代。後に誤りとわかるが、親もすがる思いだった。

「自分の心が折れないように、毎日お仏壇の前で手を合わせていました」と母の洋子(70)は顧みる。実は息子が3歳のとき、ベッドの上で訓練を始めると、「僕はもう訓練をしない」と言われたのだ。

「あまりに真摯なまなざしで私の目をじっと見ている。3歳の子がこんな目をするのかと驚き、心が折れそうでした。今でも悔やまれるのは、あのときに抱きしめてあげられなかったこと。さぞかしつらかったのをやっと言えたのでしょうが……」

 それでも「訓練をしなければいけないのよ」と精一杯返した。その瞬間、母を見つめていた息子の目線がふっと宙を漂うように離れた。だが、「自分があきらめたら、この子の将来はない」と心を鬼にするしかなかったという母。しかし、リハビリで指示されるのは「健常者の動き」で、実際に自分の身体から繰り出される運動との間にはギャップがある。熊谷は子ども心にも意味がないのではと思いつつ、黙って受け続けるしかなかった。

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