なお、森さんの金沢二水時代については、当時の首相官邸ウェブサイトにこんな記述が残っている。

「喜朗少年は、ラグビー選手になる夢を持って、石川県立金沢二水高校に進学しました。 同校のラグビーの強さは県内でつとに知られていました。ただ、念願のラグビー部に入ったものの、当時の喜朗少年は、体も小さく、先輩から「使いものになるのか」と言われたほどでした。しかし、持ち前の反骨精神を発揮して、毎日毎日、夜遅くまで練習に没頭し、チームの司令塔といわれるスタンド・オフを任されるまでになりました。そして、3年生の時にはキャプテンを務めました」

 金沢二水高校は1948年、県立金沢第二高校として開学した。翌年、現校名に改称している。「金沢二水」という校名の由来ははっきりしないようだ。

 学校史にこう記されている。

「残念ながら、これを明示する史料が現存しておらず、詳細に言及することはできない。『二水二十年』や当時の『二水新聞』などによると、本校が地理的に犀川・浅野川の両河川の縫合地域に位置していること、校舎の左右両側に鞍月用水・大野庄用水の二つの用水路が流れているということから、二つの水(川・用水)にちなんで『二水』と命名されたと言われている。また、一説には二高の『二』の字と校舎所在地穴水町の『水』の字をとったものとも言われている」(『二水五十年』)

 金沢二水高校のウェブサイトでは、校長が次のように学校を誇っている。

「『自由・闊達・明朗・真摯・清心』は、本校生徒が具備すべき目標でもあり、また多くの生徒の実際の姿でもあります。画一化を遠ざけ、個性を尊重し、新たな創造へと向かわせる見えざる力が本校には流れている、そのことをしばしば実感いたします。その結果、卒業生の多くは最大限に個性を伸ばし、多様な世界で花開かせているのです」

 森さん、上野さん。「最大限に個性を伸ばし」という意味において、スクールカラーをしっかり体現していると言えよう。

(文/教育ジャーナリスト・小林哲夫

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