■種痘の渡来と普及

 ジェンナーの発明以来、牛痘接種は瞬く間に欧米各国に広がり、日本には早くも1810年にロシア経由で中川五郎治が伝えたが、中川自身は医師としての使命感はなく、秘伝の治療で高額の報酬を要求したため普及しなかった。我が国の種痘はジェンナーに7年先んじて秋月藩の藩医、緒方春朔(おがた・しゅんさく)が寛政元年から翌年の流行時、鼻腔に人痘を接種する「鼻痘法」を行ったものが嚆矢である。春朔自身も、鼻痘は一定の確率で致命的な痘瘡を発症することから、適応を原則的に健康で体力のあるものに限定し、痘苗を選ぶ(おそらく比較的弱毒株)を用いることを強調した。

 日本で本格的にジェンナーの牛痘が普及したのは嘉永2年(1849年)でオランダ人の医師モーニッケが蘭領バダヴィア(ジャワ)より長崎に運んできたものを佐賀藩の藩医、楢林宗健(ならばやし・そうけん)が佐賀藩主世子はじめ同地の貴賎男女に広く接種し、ジェンナー同様の予防効果と極めて低い副作用頻度を報告したのだった。これを受けて幕府は神田お玉が池に種痘所を設置、これが後に東京大学医学部の母体となる。江戸末期には全国で広く種痘が行われるようになった。

■佐賀の名君

 幼い我が子に種痘を受けさせた佐賀藩第10代藩主鍋島直正は、島津斉彬、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂ら幕末の四賢侯に並び称される名君であった。小作料免除、陶磁器・茶・石炭などの産業育成、西洋技術の導入、藩校弘道館の拡充と有能な家臣の抜擢によって慢性赤字だった佐賀藩の財政を立て直した。軍事や工業技術のみならず医学も蘭学を重んじ、低い身分の出身だった蘭医、伊東玄朴(いとう・げんぼく)を抜擢し、藩の医療と衛生を任せたのである。

 民衆に医学知識のない当時、牛からとったものを人に注射すると牛になるといった迷信が広まったが、藩主自らが最愛の嫡男・淳一郎に接種させることで噂は解消した。淳一郎は長じて侯爵鍋島直大となり、岩倉使節団と渡米、さらにオックスフォード大学に学び、帰国後は元老院議官、宮中顧問官、貴族院議員として明治日本の発展に尽くした。

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ワクチン普及は迷信との戦い