森喜朗前五輪・パラ組織委会長(c)朝日新聞社
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哲学者 内田樹
哲学者 内田樹

 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

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 新聞からの電話取材で森喜朗前五輪・パラ組織委会長の発言についてのコメントを求められた。彼の女性蔑視発言には二つの層があるような気がしたので、その話をした。

 一つは伝統的な男尊女卑の性差別意識である。彼くらいの年齢では、幼児期から刷り込まれた性差別意識はよほどの自己努力なしには自覚することさえできないだろう。でも、このタイプのセクシズムはしだいに弱まってゆくと思う。

「わきまえておられる」発言にはもう一つの層がある。それは「分際をわきまえろ」「身の程を知れ」という、社会的役割からの逸脱を禁じる思想である。これは比較的新しい。

 もちろん封建時代から「身の程を知れ」ということは体制維持に必須の教えだった。現に私が子どもの頃もよくそう言って叱られた。分かち合う資源が希少なときには分配比率が優先的に配慮される。当然である。

 しかし、1960年代の中ごろからぱたりとその言葉を耳にしなくなった。高度成長期の日本というのは、国民全員が「分際を踏み越えて」「身の程をわきまえず」に、法外な野心と欲望に衝き動かされた時期だったからだ。焦土に立ち尽くしていた敗戦国民があのまま「身の程をわきまえて」いたら、世界第2位の経済大国になんかなれるはずがない。

 おかげで「身の程」のことをすっかり忘れていたら21世紀に入ってまた耳にするようになった。若い知識人たちからそう言って叱られたのが最初である。どうしてお前は自分の専門以外の領域に首を突っ込んで、一知半解の言を弄(ろう)するのだ、と。半世紀ぶりに「身の程をわきまえろ」と言われて驚いた。なるほど、「自分に割り当てられた場所から出るな」という風儀が復活したというのは、また日本が貧乏になったということだなとすぐに得心した。

 分かち合う資源が目減りすると、金棒曳きがやってきて、分配比率に目を血走らせるようになる。このところ性差や出自や社会的有用性に基づいて公共財の分配比率は決定されるべきだとうるさく語る人が目立つけれど、何のことはない、彼らは「私たちは貧乏人だ」と言い触らしているだけなのである。

内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数

AERA 2021年3月8日号