半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。
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■横尾忠則「何をでも如何にでもなく超越して描く」
セトウチさん
長いつき合いなのに、自分のことを理解してくれてないと怒ってらっしゃいますが、人を理解するなんて、自分の存在さえ不確かなのに無理です。次の一件でもセトウチさんは不可解です。ヘェー、何(な)んだか狐(きつね)につままれたような話です。デパートの一階で、誰かの絵の展覧会で若い絵描きさんが──? そこに集まっている見物人の中に僕の家族がいた──? セトウチさんが女子大生の頃、神戸のデパートでの出来事。しかも、そこで会話を交わしていた人達が僕の実の家族だと確信されたとか。
80年前の話でしょ。当時実の家族は(兵庫県の)西脇に住んでいて、「裕福そうなインテリ」どころか、長屋住いで僕の養父母は、尋常小学校しか出ていません。
当時、セトウチさんが女子大生だとすると、僕は四歳で養子になった年です。セトウチさんは僕の家族とは親類でもないのに交流があるはずがないし、どうしてそこにいた人達が四歳の僕の実家族だなんて、おわかりになるんですか。第一、セトウチさんが十四歳違いの四歳のチビの僕の存在など、知りようがないんじゃないでしょうか。
セトウチさんのお話を分析すると四歳の子供がデパートで個展をして、集まった人たちに絵の説明をしていたということになりませんか。第一、僕の存在など80年前のセトウチさんの意識の中では無いも同然です。セトウチさんは夢でも小説でもないとおっしゃっています。これが現実なら悪夢です。
さらに以前こんな話を僕にしたら、「何という大バカなのだろう。このオンナ!」と凄(すご)い言葉をまるで僕が吐いたかのように、ののしっておられます。僕はゾッとしました。あまりにも品性がなさ過ぎませんか。もうこの話は僕には身に覚えのない支離滅裂な話にしか聞こえません。
非現実的な話から現実的な話に切りかえます。僕の現実はやはり創作を抜きにして考えられません。