経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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高校の国語教育が変わるのだという。新学習指導要領の導入を受けてのことだ。2022年度から新体制が始まる。
現行の指導要領の下では、「国語総合」が国語に関する必修科目として設定されている。22年度からは、これが「現代の国語」と「言語文化」に分けられる。何とも不思議な分け方であり、何とも不思議なネーミングだ。現代の国語の中には言語文化がなく、言語文化の中には現代の国語がないということなのか。なぜ、言語文化と現代の日本語を隔離しなければならないのか。実に腑に落ちない。
「現代の国語」の授業では、もっぱら法令文や説明書、評論文などの読み方とか、図表の解読の仕方を学ぶ。これらの学習に基づいて、討論や発表が盛んに行われることになるらしい。文学作品や古典は、概ね「言語文化」の方に集約されるらしい。
文部科学省が出版社向けに開いた新学習指導要領の説明会で、文学作品を「現代の国語」の教科書に載せてはいけないのか、という質問が出た。これに対して、文科省側は「それで論理的な思考力が育めるのか」と反撃したと報じられている。何やら、逆ギレ風である。
このやり取りがまた不思議だ。文科省のお役人さんたちは、文学作品の中には論理性がないとお考えなのだろうか。論理的思考の醸成に、文学作品に触れることは妨げになる。そのように判断されているのだろうか。機械・機器のマニュアルを読みこなすことができれば、論理的思考ができているとみなされるのか。取説はスラスラ理解できるが、小説の読み方は皆目わからない。そんな若者たちだらけになってしまっていいのか。
いやいや、小説や文学作品は「言語文化」で扱うから大丈夫です。お役人さんたちはそう主張されるかもしれない。だが、これはいかにも発想が貧困だ。道具としての言葉を、魂としての言葉から分離することは危険だ。魂なき道具としての言葉でしか会話できなくなれば、我々の知性はどんどん薄まっていく。
ひょっとするとこれが狙いか。異論を嫌う政治家たちへの忖度から、文科省は、反論する知性を若き人々からむしり取ろうとしているのだろうか。
浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演
※AERA 2021年4月19日号