橋田壽賀子さん (撮影/門間新弥)
橋田壽賀子さん (撮影/門間新弥)
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「おしん」の撮影現場での橋田さん(左)と泉さん(1983年1月) (提供)
「おしん」の撮影現場での橋田さん(左)と泉さん(1983年1月) (提供)

 海外でも愛される「おしん」や「渡る世間は鬼ばかり」など多くのヒット作を書いた脚本家で文化勲章受章者の橋田壽賀子(本名・岩崎壽賀子)さんが4月4日、急性リンパ腫のため亡くなった。橋田作品に数多く出演し、私生活でも長年交流のあった俳優の泉ピン子さんが思い出を語った。

【写真】おしんの撮影現場での橋田さんと泉さん

*  *  *

 私が出ていた明治座の舞台(「坂本冬美芸能生活35周年記念公演 泉ピン子友情出演」、第1部「かたき同志」は橋田壽賀子作、石井ふく子演出)にママ(橋田さんのこと)から熱海の「あげ煎」が段ボール1箱届いたのは2月の末でした。私が食べたいと言っていたのを覚えていてくれて送ってくれたんだと思います。箱には、

「ピン子ちゃん舞台頑張ってください。また帰ってきて会える日を楽しみにしています。 橋田」

 と手紙がついていた。でも、いつもとてもきれいなママの文字がどこかゆがんで乱れていた。

 これは変だなと思いました。

 ママが急性リンパ腫だと知ったのは3月になってからです。病院でママは手術を受けたのですが、病状は良くならない。もうそんなに長くは生きられないと知らされて東京で一人で号泣しました。舞台やっている最中で2回ぐらい倒れそうになった。

 ママは1カ月くらい入院した後、自宅に戻りたいと言って自宅で治療を続けることになりました。亡くなる前日までママは、

「ハアハアー、ハアハアー」

 と、とても苦しそうで、あんなママは見たことがなかった。見ていてかわいそうでつらかった。往診に来る医師は息が浅くてもうもたない、と。

「管を抜いて楽にしますか」

 と問われました。ママには親族はなく判断する人がいない。お手伝いさんの顔を見ると、

「ピン子さんお願いします」

 私だって困りました。何を言われるかわからない……。迷い悩んだけれど最後は、

「ママ、いいよね」

 と言って、先生に、

「よろしくお願いします」

 と頭を下げました。

 4月4日にママの意識はなくなったのですが、午前7時30分ごろです、私が、「ママー!」と叫ぶと、聞こえたのか私のほうを見て一瞬目が大きく開いた。

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