1980年、日本のモスクワ五輪への不参加が決まったことを受け、記者会見した山下泰裕選手(現JOC会長)。「ショックです」と一言いってじっとくちびるをかんだ (c)朝日新聞社
1980年、日本のモスクワ五輪への不参加が決まったことを受け、記者会見した山下泰裕選手(現JOC会長)。「ショックです」と一言いってじっとくちびるをかんだ (c)朝日新聞社
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 新型コロナウイルス感染が終息する気配が見られず、東京オリンピック・パラリンピック競技大会の開催が危ぶまれている。メディアの各種世論調査では「中止」「延期」が過半数を占め、国会では野党が政府に対して大会開催を再考するよう求めている。

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 いま、代表になった選手たちの胸の内はどれほど苦しいことか。しかし、大会中止になることは考えたくないはずだ。ベストのコンディションを保つしない。

 かつて、日本はオリンピック参加をボイコットしたことがあった。今回のような感染症拡大が理由ではない。政治的な理由による。

 このとき、多くの代表選手は泣き崩れた。オリンピックに出られなくなったことを、彼らはどう受け止めたのか。近著『大学とオリンピック』(中公新書ラクレ)から一部抜粋、再構成して紹介する(取材は2020年4~10月)。

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■涙がぼろぼろと出ました

 1980年モスクワ大会。日本オリンピック委員会(JOC)はこの大会をボイコットした。79年12月、ソ連がアフガニスタンに侵攻。アメリカのカーター大統領はこれに抗議するため、モスクワ大会のボイコットを西側諸国(当時)に呼びかける。それに追随した日本政府の意を受けての不参加だった。

 しかし、すでにモスクワ大会の代表178人は決まっていた。うち大学生は54人いる。大学生の彼らはどのような思いでボイコットを受け止めたのだろうか。

 モスクワ大会代表の学生4人=レスリングの太田章(早稲田大)とボクシングの副島保彦、樋口伸二、荒井幸人(以上、中央大)、そして、日本体育大の研究生だった体操の具志堅幸司を訪ねた。

 レスリングの太田章は、76年に秋田商業高校から早稲田大に進み、80年に全日本選手権で優勝してモスクワ大会代表となった。大学「5」年のときである。ボイコットを知らされたのは、強化合宿の最中だった。

「お酒を飲んでも、ふと我に返って、何のためにがんばってきたのかと思うと、涙がぼろぼろと出ました。早稲田の学生としてモスクワ大会に出るため、わざわざ卒論だけ残して留年したのですから。当時、早稲田のレスリング部は強くなく、二部リーグに甘んじ、部員も柔道部や相撲部から集めるほどでした。そのなかで早稲田の強さをアピールしたかったのです」

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「誰に文句を言えばいいのかわからなかった」