「足の反動を使って投げる投球フォームが特徴だった。ノーワインドの時は良いが、走者が出てセットになると球威が落ちてしまう。アマレベルなら抑えられるが、プロではそうも行かない。1年目でそれに気づいて反動を使わない形にしたがうまく行かない。今のままでは厳しい。以前の形に戻した方が良いと思うけどね」(在京球団スカウト)

 若い時期からその能力は特出していた。中学時代にはすでに140キロ以上の真っ直ぐを投げ、日本代表にも選出。大阪桐蔭では2年春からベンチ入りしマウンドを任されるようになり、3年春からはエース番号を背負った。春夏連覇を果たした18年には、選抜の決勝では根尾昂(中日)にマウンドを譲ったが、3年夏は決勝で先発を任され、甲子園優勝投手となった。

「左右の違いはあるが、同校出身で将来を嘱望されたサウスポーの辻内(崇伸)と比較されることが多い。(辻内は)プロ入り後は全く芽が出なかったが、強豪・大阪桐蔭でエースでいるのは心身ともに相当なこと。辻内の故障に関しては投げ過ぎという人もいるし、燃え尽き症候群とも指摘される。柿木も心配です」(巨人担当記者)

 辻内は05年夏の甲子園で左腕最速となる156キロや、1試合19奪三振を記録しドラフトの目玉に。同年オフの高校生ドラフト1位で巨人に入団した。松井秀喜以来となる、高卒で契約金1億円というのも話題となった。しかし1年目から故障に悩まされ、2度肘の手術を経験。プロ8年間で一軍のマウンドに上がることなく現役生活を終えた。

「辻内の場合、アマチュア時代に何度か故障経験があった。当時の巨人は不安定な時期でもあり、スカウティングの不備もあったことが考えられる。また高校時代の登板間隔はかなりタイトだった。時代が異なるので柿木に関して、身体面の故障は心配はないとは思います。しかし精神的な部分まではわからない。高校時代は成功体験が多かっただけに、挫折しなければ良いのですが」(巨人担当記者)

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育成に定評のある日本ハムだが…