六大巡幸(『歴史道 Vol. 15』から)
六大巡幸(『歴史道 Vol. 15』から)
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明治天皇。『明治天皇御伝』より(国立国会図書館所蔵)
明治天皇。『明治天皇御伝』より(国立国会図書館所蔵)

 日本が近代化に向けて大きく動き出した明治時代。明治国家の「建国の父祖」として君臨していたのが明治天皇である。週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 15』では、その明治天皇を特集。大日本帝国憲法の発布や日清・日露戦争の勝利など、西欧列強に負けない国家をけん引する役割を担った人物の真実とは――。

【明治天皇のご真影】

*  *  *

 明治元年(慶応四、1868)三月十四日、五箇条の御誓文の儀式が行われた。木戸孝允の意見によって明治天皇が公家・大名を率いて神に誓う形式となった。天皇は政治の中心に存在するのだから、群臣を率いて儀式を行うべきであった。八月二十七日の即位式では、儀式が行われる紫宸殿の前に、つまり天皇の正面に地球儀を置く予定であった。列強に負けない国造りの中心に天皇は存在する。

 とはいえ、大久保利通たちが目指した、人びとの前に姿を見せる、新国家建設の中心に存在することが分かる天皇の姿の実現は、簡単ではなかった。

 明治四年七月、廃藩置県が実行される。この後の官制改革で、大久保と西郷隆盛は宮内大丞(現在の局長クラス)に薩摩の盟友吉井友実を送り込む。吉井は後宮改革を実現し、女官の何人かを更迭する。これ以後も天皇の私的空間の「奥」は基本的には女性だけの空間であったけれども、女官が天皇の私的な生活を取り仕切り天皇と政府の回路を遮断するということはなくなった。吉井は日記に、「数百年の女権、唯一日に打ち消し、愉快極まりなし」と記した。また侍従にも、薩摩や長州出身等の士族が登用された。こうして天皇は、公家と女官に取り囲まれた存在から変容する。いっそう人びとの前に表れる存在となる。

 そうなると天皇の姿・形には国家建設にふさわしい像が求められる。明治六年三月、表に出た天皇が奥に戻ったとき、女官たちは驚愕した。髷(まげ)を切っていたのである。江戸時代の天皇や公家はお歯黒と白粉(おしろい)をしていた。髷も結っている。お歯黒は明治元年に行われなくなったが、この日も白粉を引いた髷姿で出御していた。文明開化には散切り頭である。明治天皇は新国家建設に適合的な姿でなくてはいけない。

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明治五年五月には洋装が定められる