もしミスを犯した部下がいたとして、彼の能力を「否定」し、彼の行動を「批判」し、「非難」したところで、本人の意識が変わらなければ意味がない。内村はそのことを本能的に理解して振る舞っているのではないか。
とはいえ内村もミスに対して、穏やかに改善を求めたり、指導をしたりすることはあるという。ただし――ここがとても内村らしく、そして参考にしたい部分だが――ミスをした人の「人間性」を否定することは絶対にしない。どんな相手であろうと、立場に関係なく他者を尊重するのである。
子どもの頃から内村をよく知る、従兄で放送作家の内村宏幸氏も、
「人ともめたとしても、もめている相手のことも最後には“あいつにはあいつの考えがあるから”とかばうというか、擁護するんです」
と漏らす。
「内村さんは、例えば、ある人がその現場でパフォーマンスが発揮できなかったとしても、その現場には合わなかったかもしれないけど、その人がダメだっていうことは言わない人です。それは、しょせん、仕事というものはその人の“一部”でしかなく、その人の人間としての価値と、仕事場でのその人の働きは、別にイコールではない、と捉えているからだと感じます」(前出・松本氏)
同じ職場などでパフォーマンスが発揮できない人材がいる場合、私たちはすぐ「あの人はダメな人だ」と、その人間としての資質に直結させて判断してしまいがちだ。
かくいう筆者自身も同じように考えてしまった経験がないかと問われるとうそになってしまう。そのような価値観は、「仕事=生きがい」と考えているタイプに多いと思われる。
しかし考えてみてほしい。あなたは仕事において関わる大勢のメンバーが、それぞれどこで生まれ、どのように育ち、普段どんな生活をしているのかを知らないだろう。
例えば、仕事の要領が悪いようにみえる部下も、家庭では面倒見のいい最高のパパかもしれないし、みながあっと驚くような特技を持っているかもしれない。あなたは日々、その彼の「仕事」という接点だけを見ているにすぎない。要するに「はたらく」という要素は、私たちの人生における構成要素の「しょせん一部」にすぎない。