「知の巨人」といわれた立花さんに会うためにできうる限り本を読み、勉強してきたつもりだったが、テーマが何だったか少しも憶えていない。想い出そうとしても猫の顔しか浮かんで来ない。
あの猫の顔を見た瞬間、全てが飛んだ。私は学んできたことを忘れ、全て無の中でインタビューしなければならなかった。
ちっぽけな私を破滅させるためにあの猫は存在したのだ。
書庫には何万冊という書物がひしめいていた。どこからか立花さんが現れ、私はなんとか仕事を終えて、立ち上がった。足許をすりぬけていくのは、アメリカンショートヘア。その他様々な猫がどこからか私をながめていた。
私も常に猫と暮らしていたからその視線をすぐに感じた。
帰り際、私はずっと持ちつづけて来たある企みを試みることにした。
私の猫をここへ紛れ込ませる。エジプト滞在中に手に入れた十センチほどのアビシニアンの立像。
立花さんの目を盗んで、わからぬように書架の片隅に置いて何も言わずに立ち去った。あの猫は、今もあの場所に居るのだろうか。
下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。主な著書に『家族という病』『明日死んでもいいための44のレッスン』ほか多数
※週刊朝日 2021年7月16日号