74年の準々決勝、鹿児島実戦、1年生ながら5番サードで出場した原は、1回2死二、三塁の第1打席で、後に巨人でチームメイトになる定岡正二から中前に先制2点タイムリーを放つ。

 さらに2対3の9回、先頭打者として4度目の打席に立った原は、6回の二塁打に続いて、この日3安打目となる中前安打を放ち、2死後の同点劇につなげた。

 そして、4対4の延長13回1死二塁、一打サヨナラの場面で原に5打席目が回ってきた。初めは「相手は1年。さすがに打てないだろう」と上から目線だった定岡もさすがに警戒し、一塁が空いていたので、あえて1年生との勝負を避け、敬遠で歩かせた。

 実は、この敬遠シーンはテレビに映らなかった。なぜなら、当時NHKは午後6時を過ぎると、試合終了を待たずに中継を打ち切っていたため、原が打席に入り、「さあ、どうなるか?」と固唾をのんだところで、34%の高視聴率を記録した名勝負は、終了となった……。

 視聴者から抗議が相次いだ結果、翌年から延長戦で長引いた場合でも最後まで中継されるようになったという意味でも、球史に残る延長15回の大熱戦は、歴史的な一戦だった。

 原は翌75年夏の神奈川大会準決勝、日大戦では、第1打席から3打席連続敬遠されたことから、スタンドの女子高生や小中学生らがグラウンドに空き缶や紙袋などを投げ込み、試合が中断するアクシデントに見舞われている。

 このとき、審判団が騒ぎを収拾するため、スタンド内のゴミを東海大相模ナインに拾わせたことが、92年夏の星稜・松井秀喜の敬遠騒動の際にも、星稜ナインに拾わせる形で生かされたという。

 最後はその松井の珍場面を紹介する。

 春夏併せて4度甲子園に出場した松井が、甲子園初勝利を味わったのは、2年夏の91年だった。この試合で松井は勝利に大きく貢献しているが、決め手となったのは、“ゴジラ”の異名を生んだ一発ではなく、意外にも“足”だった。

 2回戦の沼津市立戦、2対2の同点で迎えた8回、星稜は2死から4番・松井がこの日2本目となる左前安打で出塁した。

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松井秀喜が“足”で魅せる