このような権謀術数の中心にいる吉宗は、悪人といえるかもしれない。だから彼が将軍になる過程を、ピカレスク・ロマンとして楽しむこともできよう。しかし吉宗が真に求めたものは、権力の頂点ではない。母親の紋と、兄とも友とも思う伊織と、暮らすことだった。ただそれだけの、小さな幸せが欲しかったのである。この吉宗の“家族”に対する渇望も、本書の読みどころとなっている。

 だが皮肉にも、吉宗の願いに基づく行動が彼を孤独にする。将軍になった彼がたどり着く、索漠たる心象風景には言葉もない。権力者の孤独も見事に描き出しているのだ。しかしラストで作者は、孤独な吉宗にひとつの慰めを与える。谷津作品の読み味のよさは、人物を厳しく見つめながら、優しさを忘れないところにあるのだろう。

 さらに、脇役の描き方にも注目したい。紀州藩時代の吉宗の後見役で、後に御側御用取次になった小笠原胤次(たねつぐ)や、勝手掛老中の松平乗邑(のりさと)など、作者独自の視点による人間像となっている。その中でも特に感心したのが、尾張藩主の徳川宗春だ。一般に宗春は、さまざまな理由で、吉宗と対立していたといわれている。その彼を、吉宗のよき理解者としたのだ。これには大いに驚いた。

 ところが読んでいるうちに、互いを深く認め合う、ふたりの関係に納得してしまった。宗春が尾張藩で実行した、消費による経済拡張政策は、吉宗の財政緊縮政策と正反対に見える。だが、そうではなかったのだ。ストーリーの中で巧みに構築された、作者の解釈には強い説得力がある。そして、吉宗をはじめとする人物たちは、真実、このような人間ではなかったのかと思えてくるのだ。

週刊朝日  2021年8月20‐27日号

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