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こんな世情、加えて9.11の日に、このような話は気も引けるが、日本では運動会の競技(名)になるほど歴史的にも有名な戦いであるのでお許しいただきたい。
戦国時代、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が、足掛け12年にもわたり続けた戦さを「川中島の戦い」と呼んでいる(4回あったとされる)。どちらが勝ったのか、結果どうなったのか、有名な戦さにしては詳細はあまり知られていない。
●激戦となった9月10日の戦い
「川中島の戦い」が正確にどのようなものであったかは、研究者の間でも意見がわかれているが、大きくは永禄4(1561)年9月9・10日(旧暦)に繰り広げられた激戦のことを指しているようだ。この戦いが犀川と千曲川に囲まれた川中島という場所だったために、全体の通称として知られるようになった。ちなみにこれ以外は、いわゆる川中島で対峙・対戦したわけではない。
●信玄の布陣そばに八幡社
結果、武田信玄は多少領土を広げはしたが、弟・信繁をはじめ山本勘助、室住虎光など大事な武将たちを失っている。一方の謙信方には人材の被害がなかったためか、両軍共に勝ちを宣言して終わりを告げた戦さなのである。とは言え、川中島で有名なシーンである謙信自らが信玄へ斬りかかる一騎打ちの逸話が残っており、今は「川中島古戦場」と呼ばれる公園内にその時をかたどった2人の像が置かれている。
この地には平安時代に創建された八幡社があり、武田信玄が陣を張った場所と言われている。境内には「川中島大合戦図」と書かれた9月10日の両軍の布陣が描かれた絵図も掲示されている。
●武田の武勲を記した「甲陽軍鑑」
「川中島の戦い」は、「甲陽軍鑑」などによって娯楽として江戸時代に大いに広まったと言える。「甲陽軍鑑」は、武田信玄と武田勝頼の2代に使えた高坂弾正(春日虎綱)が武田家の将来を危惧し、甥に口述したものが元となっている(とされている)。高坂は、川中島の戦いの最前線となった海津城を守った武将で、武田四天王のひとりである。
余談であるが、徳川家康は滅亡した武田家の元家臣たちを多数重用した。それほどに有能な武将たちであったのか、まとまって反旗を翻されるのを恐れたのか知る由もないが、おかげで江戸時代に武田家の歴史は大いに語られ、信玄を尊ぶ風潮を咎めることもなされなかった。ちなみに家康が祀られた日光東照宮の防火と警備を任されたのは、千人同心と呼ばれた武田家の家臣団である。
●両軍が欲した神仏の力
さて、武田信玄と上杉謙信はともに大変信心深い武将であったことでもよく知られている。もちろん戦国時代の武将たちは総じて出陣の前には神仏に戦勝を祈願し、信頼する寺社を持っていたので珍しい話ではない。それでも信玄は自らを不動明王、謙信は毘沙門天と称するほどに深く帰依していたが、川中島の戦いでこの一帯の寺社は大変荒廃したのである。というのも、2人の武将はともに寺社を自分の配下に置くことにも注力し、相手方の祈願文や寄進を受けたことで寺社領に攻め込んだり追放したりしたためである。