一方で水産大学校を卒業したミツルの孫と、その嫁の美歌の若々しさは、晴れた日の海の輝きのようだ。美歌は海女を志しており、妊娠中である。その胎内にも羊水という海が宿る。大きな海と小さな海。二つの海の対比が伏線となっており、最後に繋がることになる。この凄い仕掛けに唸らされる。

 文学とは想像力が現実に勝利する空間のことだ。村田の途方もない想像力は慈愛の包容力でもあって、凄惨な人間の歴史さえ年老いた海女に託す。長崎の沖には、戦後占領軍によって爆破処理された潜水艦が沈んでいる。

<人間より大きく、怪物のごとくなり、しかし怪物にもなりきれず、さりとて艦にしては人間のごとく憾(うら)みが深くなりすぎた。この海の底に埋もれかかった、黒い満身牡蠣殻藻類珊瑚海百合を纏うた鉄の塊>

 このように描写される潜水艦はもはや武器ではない。<海の水は人間の業(ごう)に似ておる>と思うミツルにとって、鉄の塊は宥(なだ)めるべき人間世界の罪業の印だ。だから深海へ、それも古代の天皇の名をもつ海山列へ連れてゆこうとする。<みんな命あるものは昔、海の底で生まれた。天皇もあたしらも鯨もみんなそうじゃ>からだ。そして深海へ向かうミツルと入れ替わりに小さな海からこの世へ出てくる赤子。

 これは戦争の慰霊ではない。まさにそういう物語から弾かれてきた<ずっと口ば結んでいた>者たちの魂の物語であり、現実を言葉によって凌駕しようとする想像力の冒険の物語だ。

 それにしても、村田の名調子は声に出して朗読したくなる。誰かに聞かせたくなる。体を揺さぶる読書体験をさせてくれる一冊だ。

週刊朝日  2021年10月8日号

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