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 歌人・川野里子さんが選んだ「今週の一冊」。今回は『姉の島』(村田喜代子著、朝日新聞出版 1980円・税込み)を取り上げる。

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 現代の語り部、村田喜代子の言葉は柔らかく温かく心に沁(し)みる。しかし、うっとりしているうちに途方もない世界に誘われていることに気づくことになる。村田はデビューから40年以上を経てさらに筆力を増し、近年傑作を連発しているが、今度は海中を探索する冒険に連れ出そうというのだ。

 長崎の沖の小さな島で長年海女をしてきた雁来(がんく)ミツルは85歳。この年齢まで海女の仕事を仕遂げた者に捧げられる倍暦の風習によって、実際の年齢の倍の170歳になった。

<春先の海の中は陸の山地と同じで、海藻の芽吹きで黄緑色に豊かに濁っておる。そのもやった水の中にひらひらと行き来する人影が、あたしの母ちゃと思えば祖母ちゃであったり、叔母っちゃと思えば母ちゃであったりする>

 天女が舞うような美しい海中の風景が語られる。この170歳の老婆の語りが潮の動きのようで、次第に体がゆらゆらしてくる。ああ懐かしいと思ったらもう村田の世界に引き込まれている。

 海中には過去も現在も幻も現実もともにある。海女たちは海に沈んだ者たちの霊にしばしば出会う。長安の都の方角を尋ねる遣唐使の男、沈没した商船に乗っていた青い目の人、そして海軍の軍服を着た男。そしてミツルの3人の兄たちも第2次大戦で沈んでいるのだ。さらに深い海には何があるのだろう、怖いもの見たさでついてゆく。

 語りは語りを呼び、ミツルの友達の立神(たてがみ)爺の話も壮絶だ。

<赤や黄や青の珊瑚・海藻の花ざかりで、元の形も知れんかった。その極楽みてえな美しい操縦席に、航空服らしいのを着た骸骨が座っておった>

 第2次大戦で沈められたゼロ戦だ。水の中では深くなるにつれて色が変わって見え、翼の赤い日の丸が青く見える。ミツルはそれを<血の気の失せた日の丸>だと思う。海はもしや私たちが忘れた記憶を引き受け、深く沈めてくれているのではないか、海とは何だろう、と思えてくる。

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