1901年、福島県須賀川市に生まれた飛行機好きの少年は、いかにして「特撮の父」となったのか。円谷英二氏が「ウルトラマン」を作るまでの軌跡をたどる。
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「円谷さんは子ども時代から機械好きで、巡回の活動写真を見て映画より映写機に興味を持ったようです。映画キャメラマンとなってからは、スモークを用いたり画面の暗さを効果的に使うなど、様々な撮影方法を試みました。1933年公開の『キング・コング』を見て、特撮そのものが見どころになることに感動。フィルムを取り寄せて、一コマ一コマをチェックして研究しました」
そう説明するのは、「生誕120年 円谷英二展」を開催している国立映画アーカイブの濱田尚孝特定研究員だ。同展は円谷氏の若き頃の試行錯誤と奮闘も含め、生涯を紹介している。
当時の映画界では、出演スターの顔をきれいに撮ることが求められていた。しかし独自の撮影にこだわりスターの顔を暗く撮ったため会社幹部ともめ、松竹を辞め、日活を辞め……。
そんな円谷氏を誘い自由に撮らせたのが、J.O.スタヂオ(東宝の前身)だった。35年の「かぐや姫」では自作のクレーンを用いたり、竹の中からかぐや姫が登場するシーンで多重露光を使うなど工夫が施された。
「戦争の時代には、ミニチュアを使った航空機の特撮で軍から高い評価を得ました。『ハワイ・マレー沖海戦』(42)では真珠湾の巨大なオープンセットを作り、今見ても驚くほどの撮影をしました。しかし戦時中の活躍が仇となって、戦後は一時東宝を去ることを余儀なくされました。『ゴジラ』(54)には戦争への深い反省が込められているのではないでしょうか。逃げ惑う人々の描写は戦時中の空襲を思い起こさせます」(濱田さん)
63年に円谷特技プロダクション(現・円谷プロダクション)を起こし、66年に「ウルトラマン」が放送開始された。
ウルトラマンのスーツアクターを務めた古谷敏さん(「ウルトラセブン」アマギ隊員役)が、巻頭ページのシーンを回想する。
「英二さんは、『目は見えるか?』『苦しくないか?』と気遣ってくれました。本当に優しい方でした。その後に『大切なことは、ウルトラマンは子どもたちに夢を見てもらうんだよ』と言ったんです」
円谷氏の卓越した技術と優しい心のおかげで、私たちは夢を見ることができたのである。
(取材・文/本誌・菊地武顕)
※週刊朝日 2021年10月29日号