台所で「捨てない」工夫も楽しんでいる。野菜はピクルスや浅漬けに、フレッシュハーブやだしをとった昆布は冷凍保存し、柑橘の皮は砂糖で煮てピール作りを。ベランダでは生ごみコンポストも実践中(撮影/植田真紗美)
台所で「捨てない」工夫も楽しんでいる。野菜はピクルスや浅漬けに、フレッシュハーブやだしをとった昆布は冷凍保存し、柑橘の皮は砂糖で煮てピール作りを。ベランダでは生ごみコンポストも実践中(撮影/植田真紗美)

「でも、私だけどんくさくて、『一人ママさんバレー』みたい(笑)。太田さんにはいつも、『おまえ、そのスカートは児童劇団?』といわれていて」

 公演前やイベントのときは賄いを務め、団員や何百人ものお客さんに出す料理を作る。二升釜で「飯炊き」に励み、大根入りのカレーや鶏手羽先カレーなど、お金のかからない料理を工夫した。

■家庭的に見えるが 価値観を壊すような料理

 枝元の料理は、誰に習うことなく自分で考えた創作メニュー。腕が鍛えられたのは、中野の無国籍料理店「カルマ」でのアルバイトだ。店主はレモングラスや香菜など当時珍しかった食材やスパイスを仕入れ、好きなように料理していいという。

「値段につり合うものを作らなくちゃと思い、味やボリューム、見た目もすごく考える。お客さんに納得してもらえるよう切磋琢磨(せっさたくま)していました」

 転機が訪れたのは32歳のとき。いきなり劇団の解散を知らされた。同居人の彼も「中国へ行く」と旅立ち、連絡が途絶える。数カ月後、帰国した時には心も冷め、枝元は彼と暮らした家を出た。

「劇団はなくなる、男はいなくなる、住むところもなくなった。普通なら結婚して、子どももいるような年頃なのに何にもなくなっちゃって……」

 そんな枝元に友だちが料理のアシスタントの仕事を紹介してくれた。その後、「女性セブン」で初めて料理を作る仕事をもらう。4ページで30品のおかずを紹介する、料理研究家の登竜門のようなページだ。最初の頃はカメラマンに「先生はどなた?」と聞かれ、「(大学の)亀山ゼミです」と大ボケをかましたことも。料理界では著名な先生についたり、料理学校を出たりしている人が主流だったが、経験はなくとも枝元には確信があった。

「芝居を10年続けてもお金にならないし、役につけるかどうかもわからなかった。人生全般の下積みはあったから、何とかやっていけるだろうと」

 仲間とつくっていく芝居の現場で培われたプロ魂があり、観客に喜んでほしいという思いは、自分の料理を見てくれる読者への目線につながる。

「母が教員だったので、急いで仕事から帰って家族のためにご飯を作る後ろ姿が浮かぶ。働く女性たちに向けてという思いはすごくありましたね」

 主婦向けの雑誌や料理番組で活躍し、「エダモン」ファンが増えていく。多忙を極めていた40代の頃、枝元は伊藤比呂美とFAXのやりとりをしていた。独身で料理の仕事に追われる枝元と、詩人で主婦の伊藤。「何、食べた?」と、日々の食事を延々としゃべっていた。

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