神楽坂の「かもめブックス」の軒先で週3日開く「夜のパン屋さん」。自家製天然酵母にこだわったパンや人気の総菜パンが並び、仕事帰りや犬の散歩中に立ち寄る人たちがお目当てのパンを買っていく(撮影/植田真紗美)
神楽坂の「かもめブックス」の軒先で週3日開く「夜のパン屋さん」。自家製天然酵母にこだわったパンや人気の総菜パンが並び、仕事帰りや犬の散歩中に立ち寄る人たちがお目当てのパンを買っていく(撮影/植田真紗美)

■ヒッピーに憧れた高校時代 劇団に入ると賄いの担当に

 父はサラリーマン、母は小学校教員という横浜の中流家庭で長女として育ち、幼い頃から超マイペースな少女だった。小学校では授業中に「宇宙の果てはどこか」などと考え、自分がどこにいるか忘れてしまうこともしきり。将来の夢もぼんやりしていたが、高校の教師に「おまえ、家政科へ行けよ」と勧められたときはひどくムカついた。

「女だから台所にいて、家族の食事を作ることを押しつけられるのなんて、鼻で笑っちゃうよと」

 高校の頃からレッド・ツェッペリンが好きで、ロック喫茶に入り浸る“ハードロック少女”だった。ヒッピーカルチャーに憧れ、サリンジャーにも傾倒した。明治大学の英米文学科へ進学。19歳のとき、書き置きをして実家を飛び出した。

「一人暮らしの『清貧』に憧れて、まずは学生寮の友だちの部屋へ転がりこんで。そしたらバイトに行く電車賃もないくらい貧乏になっちゃった」

 インスタントラーメンばかり食べていたら、友だちが見かねて牛肉のカレーを作ってくれた。大鍋にゴロゴロとお肉が入り、がんがん食べたら、夜中に鼻血が出たことも。やがて東京・阿佐谷の4畳半一間のアパートへ移ると、台所には鍋一つ。友だちにもらった素麺(そうめん)を茹(ゆ)でたり炒めたりと工夫を凝らす。さすがに飽きてスーパーで試食販売のバイトをしたら、素麺の担当でへこんだ。

 大学3年のとき同級生のバンドマンの彼と東京・国立で暮らし始めた。当時、大学は学園紛争でロックアウト。枝元は友人に誘われ、学内の劇団へ入る。卒業後も就職せず、国立の長屋住まいは売れないミュージシャンや役者のたまり場に。「何を作っても『すげえ、うまい!』と喜んでくれる。お金がない食卓も面白かった」と懐かしむ。

 あるとき現代音楽のパフォーマンスで、詩人の伊藤比呂美(ひろみ)と出会った。伊藤は枝元をこう顧みる。

「まともじゃなかったですよ。恰好(かっこう)も普通じゃなかったし、表情もしゃべり方も声もたぷたぷして、要領をえなくて、なかなか先に進まない。私たちの世代はヒッピーくずれなのにそれをまんまやっているのはすごいなと。でも、気が合ったんです」

 伊藤に誘われ、「転形劇場」を観たのは26歳の頃。主宰の太田省吾の作品「水の駅」は、旅姿の役者が舞台上をゆっくり歩き、水道からつーっと垂れる水と関わり、またゆっくり去っていくという沈黙劇。人の生死や反戦の思いを表現する芝居に惹(ひ)かれ、大杉漣(れん)らがいる劇団の研究生になった。

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ヒッピー、ディスコ、パンク…70年代ファションのリバイバル熱が冷めない今
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