北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。女性のためのセクシュアルグッズショップ「ラブピースクラブ」、シスターフッド出版社「アジュマブックス」の代表
北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。女性のためのセクシュアルグッズショップ「ラブピースクラブ」、シスターフッド出版社「アジュマブックス」の代表

 2020年10月、通院した病院で女性は肺に影があると言われた。もしかしたら自分が先に逝くかもしれないという不安は、女性を十分に追いつめただろう。精神疾患を患う息子が通院のために月に一度不在になる日を選び、女性は夫の上に馬乗りになりのこぎりで首をひいた。生きがいだった娘の子供たちとの時間もコロナ禍で制限されるなか、孤独と絶望に追いつめられた末の犯行だった。

 なぜ、のこぎりだったのか。

 当初私は、男性に対する強い恨みの表れだと信じていたが、現実は全く違うものだった。女性の家には包丁がなかったのだ。確実に殺せる刃物が、のこぎりしかなかったのだ。

 母親の減刑を願う娘が証言台に立った日、「子供の頃に父母のけんかを止めに入ったとき、父親に包丁を向けられたことがある」と話した。それが原因だったかは分からない。それでも、DV家庭で包丁を隠したり、包丁を捨てたりすることは決して珍しいことではない。裁判官たちは女性が殴られたことがあるのか、けがをしたことはあるかなど暴力の頻度などを確認しようとしていたが、泥酔し暴言を吐きモノを投げたり包丁をちらつかせたりする男が既に凶器なのだ。

 被告席に座る女性は、額を自分の手で殴り、足をじたばたさせ、「できないよー」とうめき続けた。明らかに裁かれるような精神状態ではないはずだったが、裁判官は女性を抜きに裁判を続行することを決め、結果的に8年の実刑を科した。近年、介護疲れの果ての殺人には執行猶予がつくケースが多いが、裁判員らは女性の受けた被害の重さには注視せず、「介護はしていない」という理由から執行猶予をつけなかった。

 この事件について書いた記事を読んだ女性から手紙が届いたのは、3週間ほど前のことだ。そこには美しい字で、こういうことが記されていた。

「たまたま郵便局での所用を済ませたところ『週刊女性』が目に入りパラパラとページをめくりこの記事を読んだ。人目をはばからず泣いた。私と全く同じだ。私も夫の死だけを考える日を送ってきた。この記事を読み、初めて行政に相談に行った。私はもうすぐ殺人者になるかもしれなかった。夫に全て盗られてほとんどないお金から一冊『週刊女性』を買った。本当は100冊買いたいと思う。人生をとりもどすぞ!」

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「悪いことはしたが、後悔はしていない」