「もともと、将胤は人一倍こだわりがあるんですよ。私と口げんかしても、もう、絶対折れない。幼い頃は、こだわりをうまく表現できないジレンマがあったようですね。思春期には自分の『こうしたい』という気持ちが空回りして、うまく折り合いが付けられなかった感じでした」(雅葉子)
自己表現の扉を開けたのが、ファッション。高校時代から、古着屋やブランド店を巡っていた。國學院大學に入学すると、服の個性を全開にした。大学の同級生の小田切彰子(34)は、当時の武藤のいでたちが脳裏に刻まれているという。
「髪はツンツン、服は原色で、靴はシルバー。正直、マサがパラの開会式で、ド派手な衣装で現れても驚かなかった。マサっぽいなって(笑)」
神道精神に基づく同大学で、武藤は「世の中を明るくするideaを形に」をモットーに、当時人気だったミスコンなどの企画を行うイベントサークルを立ち上げた。「保守的な大学のイメージを変えたい」と小田切を始め、仲間を引き入れていった。全ての先生が顧問を断っても、武藤は何度でも頼みに行く。一人の先生が根負けして顧問を引き受け、設立に至った。小田切は言う。
「マサは昔から『諦めの悪さ』が尋常じゃないレベルだった(笑)。時に人を困らせることもあるけれど、その行動力で物事が前に進んでいく。病気になって、彼は今『限界を作らない生き方』を打ち出しているけれど、あの頃と変わってない」
武藤も「諦めの悪さ」は自認していて、「たとえ理解を得られず諦めるにしても、やれることをやり尽くしてからジャッジしたい」のだという。
新卒で博報堂に入社。当時の上司で現在はグーグルに勤める岡村有人(38)は、武藤を「熱量150%の男」と呼ぶ。
「客先や先輩には礼儀正しく、後輩の面倒見もよく、熱量を向ける先は全方位。マサは早朝から深夜まで、熱量のレベルが全く落ちないんですよ」
外資系の広告主を任され、仕事の醍醐味(だいごみ)を感じていた。13年には木綿子と出会う。まさに人生の絶頂期だった。だがその年の秋になると、手に痺(しび)れを感じるようになり、やがて手が震えて文字も書けなくなった。病院を転々として、長い検査入院をしてもなお診断がつかず、焦燥感が募った。翌年10月に東北大学病院でセカンドオピニオンを受け、ALSと診断された。
(文・古川雅子)
※記事の続きは2021年12月13日号でご覧いただけます。