ヘルパー経験のあるスタッフが、武藤のおなかに入れる栄養剤のチューブを消毒する脇で、イベントのミーティングは続く。介護というより、自然と手が出ている。スタッフは、「私たちは、チームMASA」と笑う(撮影/関口達朗)
ヘルパー経験のあるスタッフが、武藤のおなかに入れる栄養剤のチューブを消毒する脇で、イベントのミーティングは続く。介護というより、自然と手が出ている。スタッフは、「私たちは、チームMASA」と笑う(撮影/関口達朗)

原色の服にシルバーの靴
洋服が自己表現だった

 武藤はボーダーレスな社会への仕掛けを次々と世に放ち、ALSの闘病のイメージを変えてきた。テクノロジーを駆使して誰も思いつかないアイデアを形にし、世に広め、人の意識をガラリと変える。そんな彼の姿に心打たれて、まだ自力で発話できる段階から、私は彼に取材を重ねてきた。

 米国のロサンゼルスで生まれ、邦人の少ない地域で暮らしていた。実父は銀行員で、MBA取得のためにUCLA経営大学院で学んでいた。取得後に邦銀の現地法人に残り、駐在員に。父は早朝に出勤し、母・雅葉子(かよこ)(59)と2人で過ごす時間が長かった。武藤はディズニーアニメのDVDと、英語のテレビアニメを繰り返し見る日々だった。

「将胤は、言葉が遅かったんです。幼稚園では英語の世界。帰宅したら、日本語で会話する相手は私だけ。英語でもアニメなら動きがあってわかるから、映像作品を通じて言葉とイマジネーションの世界を広げていたんでしょうね」(雅葉子)

 武藤がハマったのは、現地でテレビ放映され、個性的なカメたちが空中戦を繰り広げるSFアニメ「ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ」。物語の続きを「妄想」し、机の下や扉の陰から銃声音を「プシュプシュ」と口マネしてキャラクターの人形を操るのに夢中になった。

 4歳半の時に両親が別居し、日本に帰国後に離婚。小学校入学と同時に母が再婚して、港区の赤坂で暮らし始めた。武藤は言う。

「アメリカから離れ、父親と離れることは寂しかった。母親に心配をかけたくなくて、その感情を表に出さないようにしていた記憶があります」

 義父・真登(まさと)(61)は電通を経て広告畑で起業しており、武藤は幼少期からCM撮影の現場などに遊びに行く機会が多かった。「出会ってきたカッコいい大人たちが広告マンばかり」で、人と人のコミュニケーションを創発する場の熱気に触れた。

 とはいえ、思春期に壁にぶつかる。母によれば、「こだわりの強さと自己表出のギャップ」だ。中高時代、友だちは多かったが、ぶつかることも多かった。愛情が深い分、子育てにも厳格だった真登ともぶつかった。

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