では現在起こっている身体の異常は一体何に起因するのだろう。それを究明する不安と同時に、愉しみもなくはない。現在、自分の中に起こっている症状を解消するのは、身体的な治療よりも、哲学的な思索による解決法を探る方が先決ではないかなあ、と考えた時、マルクス・アウレリウスという哲学者の「自省録」の中の言葉がフト頭を掠めた。
「自分のことをすでに死んだ者、今の今まで自分の人生を生きつくした自分として考える。そして残った人生を、自然にしたがって適切に生きること」とおおよそこのように語っている。だとすれば、息切れも動悸も自分に与えられた自然体と考えてみてはどうだろう。僕が絵を描く時、体力の低下、右手の腱鞘炎というハンデキャップがある。従って、そのハンデキャップを自然体として認めることを前提として絵を描くようになった。その制作時の考え方をそのまま、現在の日常生活に置きかえれば、息切れも動悸も単なる肉体のハンデキャップだ、と考えられないだろうか。
街に出ると僕と同年に近い老人が、杖をつきながら、すり足、牛歩で、ゆっくり、ゆっくり歩いている。あれを病気とみるか、老化現象とみるかだ。僕はあれを病気としてみているのかも知れない。でも検査の結果、病気ではないらしい。すると全ての老人はこうなる運命にあるのかも知れない。僕のかかえている問題は、どうも自分を老人と認めていないところから生じている仮病ではないのか?
医師に聞くと僕と同じ条件の患者が僕と同じような質問を投げかけてくると言われる。病気として登録されてないものを病気では?と疑問視するところに生じるズレを僕は病気と考えているのかも知れない。疑わしい色んな検査の結果をひとつずつ否定していった結果、医学的に病気でないという結論に達すればそれなりに僕は納得して、息切れ、動悸と共生共存できるのかも知れない。
一年前の体力と今の体力は同じでないというのが前提だが、僕はその前提を認めていないのかも知れない。だって目を閉じれば、ついこの間まで横断歩道を走って渡っていた。そんな自由な動きができた自分と、今の自分の間にかなりのズレがある。アトリエで無為の状態でソファーに寝ころがっている自分は10年前、20年前の自分と全く同じで、若い気がする。ところがソファーから立ち上って動き出すと、再び息切れと動悸だ。その途端、僕は瞬時に病人に早変わりする。