トキワ荘の中の紅一点、水野英子(ひでこ)は、石森章太郎や赤塚不二夫と合作マンガにとりくむ。そこで、石森が見せた独創的な技法に水野は驚嘆する。紙面を斜めにつらぬくコマわり、ハゲタカが舞うその影が恋人たちの運命を暗喩するラスト。トキワ荘マンガミュージアムで流れるインタビュー映像で水野はこう語っている。
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「あそこで生まれた表現方法が(中略)マンガというスタイルになった」
藤子不二雄A(安孫子素雄)の描く『まんが道』では、手塚治虫が、安孫子と藤本に、熱くこう語りかけている。
「現代の漫画はどんどん進化している。その進化の先へ、僕たちは行かなければならない」
ところが、寺田は違った。トキワ荘に下宿した若いマンガ家の中で、寺田ヒロオは唯一、手塚治虫の影響をうけていなかった。寺田は、戦前『少年倶楽部』の編集長をつとめ、戦後公職追放で講談社を追われた加藤謙一が1947年に創刊した『漫画少年』の考える漫画こそが本当の漫画だと考えていた。
私は当初、寺田が、石森や赤塚らの圧倒的な才能に気押されて、筆を折ったのかと考えていた。というのも、萩尾望都と同居した竹宮恵子が萩尾の圧倒的な才能に抱いた絶望感を、前のサンデー毎日の連載で一度書いたことがあるからだった。
しかし、トキワ荘最後の生き証人である鈴木伸一は、それは違うと言う。
「石森は確かに凄い才能でしたが、テラさんにとっては、手塚以降のマンガというのは別物なんです。テラさんにとっての理想の漫画は、『漫画少年』であり、そこに掲載されていた井上一雄の『バット君』なんです。だから石森たちのマンガを見て気押されてということはなかった」
学校の先生になりたいと考えていた寺田にとっては、子どもは「清く明るく正しく」伸びなければならないもの(『漫画少年』創刊の辞)、漫画はそのためにあるのだった。
「テラさんの『スポーツマン金太郎』は、それこそ金太郎や桃太郎が野球をして活躍するおとぎ話のような漫画で、こんな漫画が現代に成立するのか、と思っていた。でも人気はあったんです」