上空からヘリの部品が小学校や保育園に落ちて来たり、流弾が民間地に被弾したり、有害物質を放置したり放流したり、今の時代にそういうことってあり得ないでしょう、と。安全保障政策以前の社会ルール、突き詰めれば、「人権」に地域差をつくらないでほしいということに尽きる。
こうした沖縄の要求は、保守・革新を問わない歴代知事によって繰り返され、今に至るまで政府や国民にほとんどスルーされてきた。
今や無視では済まなくなり、基地負担軽減を求める「沖縄」への誹謗中傷はネット上で可視化され、常態化している。沖縄を対中国の軍事の防波堤と捉える見方が強まるにつれ、バッシングはますますひどくなっているように感じられる。
「共感」ばかりに捉われ
国の政策に否定的な立場から「沖縄の声」を特定のメディアを通じて流すことは、その話者を「標的」のリスクにさらすことと同義になっている。
だが、発信を控えれば、事態が好転するとも思えない。では、どうすればいい?
価値観が合わない相手を嫌悪する感情は抑えがたく、議論は常にかみ合わない。というか、議論は避けたいという意識も、正直に明かせばどこかにある。話が通じそうにない相手と向き合うよりも、価値観の合いそうな相手とポジティブにつながりたい。そのグループの中で認められたい。
でもよく考えると、意見や立場の違いを越えて話し合うことって、民主主義の基本じゃなかったか。
私たちは「自分の意見に共感してくれる味方を増やす」ことや「価値観の合わない相手を叩く」ことばかりに捉われていないか。自分の嗜好に合うモノを手に入れる「消費」や、一方的に相手を打ちのめす「マウント」によって得られる自己完結の快感とは対極にあるのが、面倒くさい人間づきあいだ。政治にしろ、社会運動にしろ、意見や価値観が相容れない他者ととことん膝を突き合わせて対話するという面倒くさい作業を抜きに、民主主義は発展も深化もしない、ということだろう。
知事選の告示日から数日間、沖縄で取材した。
「このままだと、沖縄は戦場にされる。それを避けるにはどうすればいい?」
真剣な目でそう問う沖縄の友人に、答えをもたない私は固まるしかなかった。
取材の途中、新基地建設が進む名護市辺野古の対岸の瀬嵩浜(せだけはま)で拾った貝殻は、那覇のホテルの部屋に残して東京に戻った。なぜそうしたのか、ずっと考えていた。認めたくはないが、心のどこかで東京の生活にこれ以上、「沖縄」を持ち込みたくない、という意識が働いたのかもしれない。自分の酷薄さにぞっとした。
自分の中にもどうしようもない「他者」がいる。
(AERA編集部・渡辺豪)
※AERAオンライン限定記事