田原総一朗・ジャーナリスト
田原総一朗・ジャーナリスト
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 ジャーナリストの田原総一朗氏は、先月亡くなった経営の神様・稲盛和夫を偲(しの)んだ。

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 京セラとKDDIを創業し、日本航空の再建にも尽力した稲盛和夫氏が、8月24日に老衰のために死去されたことを知った。

 私が稲盛氏に初めて会ったのは、1980年である。稲盛氏は47歳、ナッパ服とでもいう作業着姿であった。当時の京都セラミックは資本金30億円、社員数3千人、78年度の売上総額は503億円で、米国証券取引所に株式を上場したばかりであった。

 稲盛氏は32年1月、鹿児島の生まれである。同年生まれには、石原慎太郎、五木寛之、江藤淳、大島渚、小田実など、時代を動かすリーダーたちがたくさんいる。そのことを言うと稲盛氏は答えた。

「自分は実は極めて臆病で、人生は挫折の連続でした。私の場合、この臆病さと挫折とが肥やしになったと思います」

 44年、敗戦の1年前に稲盛氏は鹿児島第一中等学校を受験したが合格しなかった。これが最初の挫折である。国民学校高等科進学の翌年には肺浸潤になってしまう。病床で稲盛氏は、「生長の家」の教祖である谷口雅春の『生命の実相』という本を繰り返し読んだ。その中に、次のような節があった。

<苦痛を不幸だと思うのは肉体心のあやまりである。苦痛がたましいの生長にどんなに必要であるかということを知る者は苦痛でも喜べる>

 魂の成長のために、病気でさえも自分の意思が引き寄せているのだとする本書の内容に、稲盛氏は強い衝撃を受けたのだという。

 失敗は次にチャレンジする意欲を生むためのチャンスである。

 稲盛氏は、知人の紹介で京都の松風工業という、高圧線の碍子(がいし)を作るメーカーに就職。ニューセラミックスの研究スタッフの一員となった。ところが開発が軌道に乗ると、京大出身の技術部長など京大勢が中軸となり、稲盛氏たちは完全に外されてしまう。

 稲盛氏は仲間たちを引き連れて新企業を発足させたのだが、展望は見えず苦境が続いた。

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