飽きたから絵を描くのを止めたわけではない。「飽きた、飽きた!」という気分で飽きた絵を描くとどういう絵になるんだろう、というケッタイな好奇心もある。老齢になって好奇心などは持たない方がいいに決まっている。好奇心も意欲も、変な欲望もなく、ぼんやりと日向ぼっこをするような生き方こそ老齢の贅沢な生き方ではないだろうか。まるで人生にも飽きたような生き方である。飽きた生き方は諦念の思想である。生きることに飽きて死んじゃった三島さんに、死なないで「豊饒の海」のあとに諦念小説でも書いていただきたかった。
画家でこういう人は誰だろう。マルセル・デュシャンは、美術家になる前から美術に飽きたような作品を作ってきた。その作品は変化の連続で、ニーチェ的に言うなら、成長の連続だから飽きたとはいわないかも知れないが、言葉的には飽きたコンセプチュアルアートということにならないかな。イヤー、それにしても飽きるということは素晴らしい生き方ではないだろうか。老人になればみんな何かに飽きて成長が止まる(ニーチェ)そうだから、人生はこれからだと思いましょうよ。
僕は文学の知識はうといので、飽きた小説は余り知らない。井伏鱒二の「山椒魚」なんて小説は小説に飽きた人の書く小説ではないでしょうか。深沢七郎さんや森鴎外の「寒山拾得」なども諦念の文学って感じがしないでもないが、ここはやっぱり嵐山光三郎さんの博識に頼って、本誌の「コンセント抜いたか」でぜひどんな作家のどんな小説が諦念小説か、内外の作家のこれという作品をぜひご紹介していただければ大変嬉しいと思いますが。僕が現在嫌々描いている「寒山拾得」シリーズは、さしずめ諦念絵画ではないかと思うのですが、ここにはニーチェ的成長の止まった痕跡が見えるかどうかは、鑑賞者にゆだねるしかない。
飽きる反対は、意欲だと思うが老齢になって、まだ意欲があるなんて見苦しい。むしろ今やっていることを減らす生き方の中にこそシン・老人の生き方があると思うんですが、どうでしょうね。
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰
※週刊朝日 2022年1月7・14日合併号