日本人が大切にしてきた生活文化や個人が磨いた独自のスキルは、思った以上に世界に通用するし、歓迎される。自分ができることを素直に表明し、それが求められる場に身を移すだけで、マーケットは一気に広がる。幾度となくレッドカーペットの上を歩きながら、川原は「世界のKonMari」が生まれたのは奇跡ではないと考えていた。第2、第3のKonMariがもっと生まれていいのではないか。なぜ生まれないのか──。

 川原がどうやってプロデューサーという天職に辿り着いたのか。その原点は「広い海に面した小さな世界」で過ごした幼少期にある。

 生まれは瀬戸内海に浮かぶ広島県尾道市生口(いくち)島。30平方キロメートルほどの小さな島で川原は育った。自衛官で躾(しつけ)に厳しかった父と、社交的で明るく「ママさんバレー」の練習場へ川原をよく連れていった母。対照的な両親の間で育ち、「怖い相手の機嫌を損ねず、お菓子をくれそうな相手に可愛がられるにはどう振る舞うべきか。繊細に空気を読む力が自然と身についた」。

 小学生の頃、一家は海を越えて呉市に引っ越した。ポツポツとシャッターが閉まる商店街の、その先の世界に飛び出す将来があると想像すらしていなかった。小学生の頃は器用な優等生キャラだったがいじめの対象になり、その反動で中高時代はヤンチャに過ごした。だが次第に、自分の命の使い道について真剣に考えるようになったという。

 転機は高校3年生の頃。「呉を飛び出して、東京に行く」と決意し、がむしゃらに受験勉強をしていた無理がたたった。急性の内臓疾患に襲われ、生死を彷徨(さまよ)った。第1志望だった大学の受験日当日は病院のベッドで、白い天井を見つめていた。センター試験の結果を転用できる私立大学へなんとか進んだが、自分の可能性をどこまで広げられるかに自信はなかった。「周囲に言っていた目標は、『広島に帰ってきて市長になる』。あの頃の僕にとって、上京は意を決しての“越境体験”。怖かったけれど、やってみるとなんとかなった。以後、未経験の世界に飛び出すことを恐れなくなった」

(文・宮本恵理子)

※記事の続きはAERA 2022年1月17日号でご覧いただけます。

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