毎朝、最初に見る新聞の記事は死亡記事である。そこには僕の85歳という年齢の前後の人達の死が伝えられている。だからすでに自分は死の範疇(はんちゅう)に入っているのに今日まだ生きているという不思議な実感を伴いながら、ルーシアン(ロシアン)ルーレットの洗礼からまぬがれたことにホッとしているというわけだ。だから毎日が実にスリリングなサプライズを味わっていることになる。

 人間が死ぬということは、いっぱい抱えたメンドーくさいことを、そのまま処理しないで放っといたまま死ぬことを夢想することでもある。瀬戸内さんに晩年会う度に、「まだ遺書を書いていないのよ」とよくおっしゃっていた。このままスッと消えると遺書も遺言も書く必要はない。亡くなる直前、瀬戸内さんは、よく、「思い残すことは何もない」ともおっしゃっていたので、ちゃんと遺書だか遺言を残されたんだなあ、と思っていたら、死後、そんなもんは見つからずに、残された人達の宿題になってしまったらしい。

 死ぬことはメンドーな問題を放ったらかして、無責任に死ぬことかも知れない。そんな無責任な行為を実践することが「思い残すことがない」と言うことで、たとえ思い残すことがあっても、それは残された者の宿題にしておけ、ということなのかも知れない。自分の死後の問題をいちいち、考えていたらキリがない。死ぬということは無責任になることでもあるらしい。生前、いちいち責任を取りながらどのように生きてきたのか知らないが、そんな責任から逃れることが死なのではないかとも思ったりする。

 そう思うと死は解放である。生きることは責任を全うすることなのか? どうかはわからないが、死んでも尚、責任を駱駝が背負った荷物のように、ヘトヘト言いながら、死の旅路にでるなら、死んだ値打ちはない。折角死ぬんだから、空っぽになって死ぬのがいい。抱えた問題を解決するというより、その問題からの執着を解決すれば、それでいいのではないだろうか。とにかく責任を云々する以前に執着から解放される生き方を生きている間に解決しておけばいいということではないのか。執着は問題の解決を実践することではなく、その問題から離れた心的状況の中で生きていることが重要ではないのか?

暮らしとモノ班 for promotion
2024年の『このミス』大賞作品は?あの映像化人気シリーズも受賞作品って知ってた?
次のページ