小林陵侑のジャンプ
小林陵侑のジャンプ

 二つ目は背中側の気流の乱れが少ないこと。一般的に、体を持ち上げる向きに働く「揚力」はジャンプ後半に減少して失速していく。しかし、小林陵はジャンプ後半に増えていく。背中側に受ける圧力が小さく、揚力の増加につながっているとみられる。山本さんはこう話す。

「彼は僕らが考える『常識』ではない動作戦略ですが、踏み切りからフライト姿勢を形づくるのが抜群にうまい。金メダルのジャンプは本当に美しく、見ていて涙が出てきました」

■発掘・育成事業で開花

 小林陵は岩手県出身で、兄の背中を追って小1でジャンプを始めた。小5のとき、県内から五輪などの大舞台で活躍するアスリートを発掘・育成する「いわてスーパーキッズ発掘・育成事業」の1期生に選ばれ、さまざまな競技に取り組んで才能を開花させた。中3時に全国中学校大会でスキー・ジャンプと複合で2冠を達成。盛岡中央高校でも国体で優勝した。

 1992年アルベールビル五輪のノルディック複合団体金メダリストで、事業の立ち上げから携わっている岩手県文化スポーツ部スポーツ振興課の三ヶ田礼一さん(55)は小・中学時代の小林陵についてこう振り返る。

「当時は背も小さかったですが(現在は174センチ)、天才肌でどの競技もうまかった。レスリングをはじめ、いくつもの競技の指導者から『世界を狙える』と熱心に誘われていました」

 今でこそ岩手県出身のスポーツ選手といえば大リーグ・エンゼルスの大谷翔平(27)がいる。しかし、当時は目立った選手がいなかった。「岩手から世界を目指そう」が合言葉だった。小林陵は各地の同事業出身者として初めて18年平昌五輪代表になったシンボル的存在だ。

■高梨への温かい対応

 高校時代に3年間担任を務めた佐々木美咲教諭(33)は小林陵の金メダルに、「あのときの言葉が実現するなんて」と感無量だったという。

「3年生のときの二者面談で、『オリンピックに行ってメダル取りたいっすよ』と話してくれたことがあります。自分からそういうことを言うタイプではないんですが、私から将来について聞いてみたら初めて聞かせてくれました。有言実行、本当におめでとうという気持ちです」

次のページ