承久の乱を描いた絵巻(2020年10月)
承久の乱を描いた絵巻(2020年10月)
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 若年時から頼朝のそばで経験を積んだ北条義時。頼朝の死後は権力闘争に勝ち、ついには後鳥羽上皇と雌雄を決した「承久の乱」に勝利。鎌倉幕府の政権を揺るぎないものにした。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.19』では、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」時代考証者・坂井孝一氏が“主人公・義時”を徹底解説。不明な点も多い実像をズバリ斬る!

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 北条義時は長寛元年(1163)に生まれた。父は伊豆国田方郡の狩野川流域の北条(現、静岡県伊豆の国市韮山)を本拠とする北条時政、母は前田家本『平氏系図』や「真名本」の『曽我物語』によれば、同国同郡の伊豆東海岸伊東(現在の静岡県伊東市)を本拠とする平家の家人伊東祐親の娘であった。時政は祐親の娘婿、義時は祐親の孫ということになる。

 義時が13歳になった安元元年(1175)八月、伊東に流されていた源頼朝の最初の妻、祐親の娘が狩野川を挟んだ北条の対岸の領主江間次郎に再嫁させられた。九月には頼朝も身柄を時政のもとに移された。祐親が大番役で在京中、頼朝は祐親の娘と交誼を結び、千鶴という男児を産ませていた。帰国した祐親は平家の咎めを怖れて3歳の千鶴を殺害、娘を頼朝から奪って江間次郎に再嫁させたのである。祐親が怒りに任せて頼朝を殺しかねない中、時政を烏帽子親に持つ祐親の次男伊東祐清の提言により、頼朝は祐親の娘婿時政の監視下・庇護下に入ることになった。この出来事が義時の人生を大きく変えることになる。

 なお、頼朝の最初の妻は「真名本」や『平家物語』では「祐親三女」、後世の在地伝承では「八重」という名だったとされる。ただ、祐親には八重のほかに時政の妻となった娘、三浦義澄の妻となった娘、工藤祐経と離縁させられたのち土肥遠平の妻となった娘がいた。時政の妻が産んだ政子の生年が保元二年(1157)、義澄の妻が産んだ義村が、政子の弟義時より年少だったことを考えると、時政の妻が祐親の長女、義澄の妻が次女、遠平の妻が三女、八重は「四女」だったとすべきである。しかも、時政の妻の母は祐親の先妻、他の娘たちの母は祐親の後妻だった可能性が高い。とすると、八重は義時からみれば、母の異母妹にあたり、姉政子より少しだけ年上の叔母ということになる。

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