また、新著(『鎌倉殿と執権北条氏』)で仮説として提示したのが義時と八重の結婚である。頼朝は治承五年頃から御家人たちの結婚を仲介するようになり、自らを結節点とした身内派閥の形成に力を入れていた。政子懐妊の祝賀の一環として、頼朝と政子が中心となり、義時と八重の結婚話を進めたと考える。頼朝の仲介はこれだけではない。八重の死後、建久三年には比企朝宗の娘姫の前と義時との結婚も仲介したことが知られている。
さらに、史料の少ない義時にしては珍しいエピソードが、寿永元年(1182)十一月の「亀の前事件」である。頼朝の妾亀の前の住居を破壊せよという「後妻打ち」を政子が牧宗親に命じたところ、立腹した頼朝が宗親の髻を切るという恥辱を与えた。宗親は時政の後妻牧の方の父であり、憤慨した時政は伊豆に下国した。この時、父時政と行動を共にしなかった義時を、頼朝は夜中にもかかわらず呼び出し、賞を与えると褒めちぎった。ところが、義時は畏まりましたと答えただけで退出したという。感情の起伏が激しい時政と違い、義時は冷静沈着で出しゃばることなく、頼朝との信頼関係を第一に考えていたことがわかる。
頼朝期における義時は、身内の側近として頼朝と信頼関係を築くとともに、政治家としての頼朝の長所・短所をつぶさに観察し、自らの成長の糧としていったと思われる。
※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.19』では「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」を特集