コロナ禍で需要が高まっているものの一つに「本」がある。日本とイギリスで多角的に社会を見つめる作家の高橋源一郎さんと英国在住のコラムニストのブレイディみかこさんはいま、どんな本を読み、何を感じているのか。AERA 2022年2月21日号から。
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高橋:この前、ブレイディさんに『ニッポンの音楽批評』という本を薦めてもらいましたよね。読んだらすごく面白かったです! なのでその本から。
ブレイディ:この本の書評で誰かが「音楽批評の大河ドラマみたい」って書いていて、うまい表現だなあと思って。日本の三味線音楽が演劇とセットになって日本人の大衆音楽としてあったのに、ペリーが洋楽を連れてきたときから、軍隊をうまく西洋風に組織させるため、四民平等のための健全な音楽として明治政府が洋楽を戦略的に入れたことで、それまで連綿と流れてきた大衆音楽、つまり三味線音楽が洋楽の下に見なされる。
高橋:政治的なんですよね。
ブレイディ:三味線音楽を西洋から入ってきた音楽と対比する流れとして大河ドラマみたいに書いていて面白かった。
■無責任に付和雷同する
高橋:歴史は、ゆっくり語るものが多いけれど、違うスタイルで語ると違った風景が見えてきます。この本は、マラソンを100メートル走の速度で駆け抜ける感じ? 150年を駆け抜ける。
ブレイディ:そうですね。
高橋:それだと何が重要なのかがはっきりとわかる。例えば、日本の近代音楽の最初の論争はワーグナーについて森鴎外と上田敏の間に交わされたものです。実は、この論争の時点ではワーグナーは日本で上演されていない。ほとんど誰も聴いていないはずなんです。誰も知らない音楽について、偉い人が徹底的に論争した。このスタイルって文学も美術もみんなそうです。近代日本は全部輸入品でまかなった。だから、とりあえず輸入した人が偉かった。庶民は知らないだろうけど、俺は知ってるぜって。実は、これ150年たっても変わってないんだよね。この話には続きがあって、文壇の作家たちが次々とその熱に感染して、ワーグナーがいいと言い出すわけです。つまり偉い人がすごいって言ってるんだから、いいとしか思えなくなる。無責任に付和雷同してゆく。でも、日本の文化って、これを繰り返してきた。だから、この本は音楽批評だけど、社会批評でもあり文化批評でもあるんですね。