将軍の権力を抑えるために設置した機関だが、毎回13人全員が揃って会議を行ったわけではない。会議でまとめられた意見の最終判断は頼家が行ったとされる(『歴史道 Vol.19』から。写真/国立国会図書館所蔵)
将軍の権力を抑えるために設置した機関だが、毎回13人全員が揃って会議を行ったわけではない。会議でまとめられた意見の最終判断は頼家が行ったとされる(『歴史道 Vol.19』から。写真/国立国会図書館所蔵)
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 成立当初の鎌倉幕府は、東国を支配する小規模な地方政権でしかなかった。しかし、承久の乱に勝利したことで、その支配領域を全国へ拡げていく。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.19』では「鎌倉幕府」を徹底解説。ここでは、二代将軍・頼家を支えた「鎌倉殿の13人」と「合議制」の実体を解き明かす。

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 源頼朝が、鎌倉幕府の最初の機関として設置したのは、侍所である。侍所は、御家人たちを束ねるのが務めであった。

 治承四年(1180)、侍所の初代別当(長官)には、相模国の有力武士・和田義盛が任命された。御家人の統制のために設置されたのだが、そのため、侍所というと武家の機関という印象が強いが、平安時代にも上級貴族の家政機関として既に侍所(人事管理などを担当)が設置されていた。

 ついで、元暦元年(1184)には、問注所という裁判機関を設けている。この「問注」とは、訴訟当事者から事情を聞くことである。当初、問注所は、頼朝の邸宅の一部が充てられていた。 同じ頃、幕府に公文所という機関も置かれた。ここは一般政務の処理を行ったのだが、後に公文所は「政所」に改称される。政所は、幕府の財政機関であり、関東御領の経営、幕府が請け負う東国荘園の年貢の京進(京都の領主に進上)が主要任務であった。

 一国ごとの公領や荘園の領有関係や田積を記した大田文の作成・保管も仕事の一部だった。ちなみに、元来、公文所は、平安時代に国衙におかれ、公文書を処理する役所を指した。

 政所も、平安時代、貴族の家で荘園の事務や家政などをつかさどった所を指したのである。都には京都守護が置かれ、朝廷との交渉や治安維持の職務を果たした。ちなみに、義時の父・北条時政も京都守護となっている。

 この他、地方にも行政機関が設置された。九州には、在地の御家人を統率するための鎮西奉行が、陸奥国には奥州惣奉行を置いた。陸奥国では、葛西氏を平泉(岩手県平泉町)に、伊沢氏を多賀の国府(宮城県多賀城市)に置き、奥州惣奉行としたのだ。幕府の命令を国内に伝えたり、国務を遂行したりしている。

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