勝村政信(撮影/大野洋介)

「役者を始めたのが舞台だったので、舞台をやるのが当たり前なのかな、と思っているだけです。最初に入ったのが蜷川さんのところ(GEKISHA NINAGAWA STUDIO)だったんですが、当時の蜷川さんは、非常にエッジが立ってまして(笑)。毎日の稽古は、本当に地獄のようでした。当時は、『こんな屈辱を味わうくらいなら、(蜷川さんを)殴って辞めてやる!』ぐらいに思ってました」

 理不尽な稽古に耐えられた理由は、「強いて言うなら、悔しかったから」。

「僕はそれまで、本なんて読書感想文を書くときぐらいしか読んだことがない、漫画以外を買いに本屋さんに行ったことがないほど、活字とは無縁の学生生活を送ってきました。だから、最初の頃は、蜷川さんの言ってることがチンプンカンプンで(苦笑)。あるとき、蜷川さんがワーッとしゃべる中で、『ヤン・コット』という単語だけ聞き取れた。それを頼りに、ヤン・コットの本を古本屋で見つけて、読んでみたんです。ポーランドの評論家で、シェイクスピアのことが書いてあって、よくわからないけど、なんとなくわかるような気がする。そこから物語の面白さに目覚めました」

 蜷川さんの元で2年間修業をしたあと、鴻上尚史さんが主宰する劇団「第三舞台」に入団。1987年、舞台「朝日のような夕日をつれて」で俳優デビューを果たした。

「稽古が2カ月あって、最初の1カ月は、朝から晩まで延々身体訓練とエチュードでした。恐ろしくスパルタで理不尽な訓練です。他にも、早稲田の大隈講堂の前で逆立ちして歌を歌わされたりとか。それが終わると、ようやく台本をもらえて、そこからセリフを覚える。この前は、高杉くんと一緒に、第三舞台のときのようなエチュードのさわりみたいなことをやって、『僕らは昔、こういう稽古を2~3時間ずっとやらされていたんだよ』なんて笑いながら話しました。今となっては、『こんなに自由に動けるように鍛えてくださってありがとう』と思える。誰も殴らなくてよかったです」

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