しかし、これでも十分ではないと、享保五年(1720)に、町火消が組織される。尽力したのは、時代劇などでもおなじみの大岡越前こと大岡忠相である。隅田川以西を四十七組(後四十八組)、隅田川から東側を十六組に分けた。最初は、町人地だけの活動であったが、享保七年には武家地にも活動の範囲を広げ、江戸城内にも出動するようになった。
町火消は町人たちの負担で、鳶と呼ばれる人たちを雇っていた。一説によると江戸には1万人ほどの火消がいたという。江戸の人口は百万人という説をとれば、その1%が火消だったわけだ。
なお、当時の消火は、火に水をかけて消すのではなく、可燃物を取り除く破壊消防と呼ばれる方法が一般的であった。当時の技術では、一度に大量の水を継続的に放水することが不可能だったからで、鳶口などで先を争って建物を壊していく破壊消防が主だった。