現代の日本は度重なる災害・疫病に襲われている。だが、江戸時代も多くの災厄に見舞われ、その都度、民衆はたくましく乗り越えた。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.10』では江戸時代の民衆を苦しめた「火事」を解説。江戸時代約260年に起きた火災で推定死者は延べ約16万人といわれ、世界でも類を見ない「火災都市」だった。医療・防災が今より乏しかった時代、凶変とともに生きた歴史をたどる。
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江戸の町ではボヤを含めると冬の間は毎日のように火事があったといわれている。現在でも冬場の東京では連日乾燥注意報が出ることからもわかるように、雨や雪が極端に少ない。江戸時代は建物が木や紙といった燃えやすい素材で作られていたうえ、特に町人地は小さな間取りの長屋などが密集しており、一度火がついたらなかなか消火できない状況にあったため、度々、大火事が発生した。
数ある大火の中でも、「江戸の三大火」と呼ばれているのが、明暦三年(1657)に起きた明暦の大火、明和九年(1772)の目黒行人坂の大火、文化三年(1806)の文化の大火である。
明暦の大火は、明暦三年正月十八日の午後一時頃に本郷丸山の本妙寺(東京都文京区)から出火し、そこから南下して駿河台や日本橋方面を焼き、翌十九日の早朝鎮火。ところが、昼前になって、小石川にあった大番与力衆宿所から新たな火の手が上がり、神田や竹橋へ広がって、江戸城の中にも火が入り、本丸、二の丸、三の丸が全焼。江戸城に近い大名小路にあった大名屋敷も被災した。なぜか、夕方には麹町の町屋からも火が出て、愛宕下まで回り、翌二十日の朝ようやく火がおさまった。火元がひとつでないことなど不自然なことが多いため、当時から放火説がある。
この大火事で焼け出された人に対して、幕府は浅草米蔵の米で粥施行を実施。町中へは米を安価で売ることを命じ、復興のために十六万両下賜して亡くなった人を埋葬し、弔うために現在の回向院(東京都墨田区)を建立した。