行人坂の大火の原因は放火で、目黒にある大円寺の僧が火をつけた。犯人を捕まえたのが鬼平こと長谷川平蔵の父親で、この功績により、火付盗賊改加役から京都町奉行に出世したという。
江戸の大火といえば、思い出されるのが、八百屋お七である。一説によれば天和二年(1683)の大火で焼け出され、寺に避難。そこで寺小姓を見初めたが火事がおさまると家に帰らなくてはいけない。家に戻ったお七は、彼に会いたくて、また火事になれば会えるのではないかと、火をつけた。この罪により、火あぶりの刑に処されたという。
火事の多い江戸だが、人々は建物が焼け落ちるのを、ただ指をくわえて見ていたわけではない。 開幕当初は、まとまった消防組織はなく、江戸城で火事が発生した時に、老中や若年寄が旗本たちに指示して消火に当たっていた。このほか武士たちや、町人たちが自主的に消火活動を行っていたが、寛永十八年(1641)の桶町火事で、江戸の広い地域が焼失し、限界を感じたことから寛永二十年に大名火消を創設する。六万石以下の大名家16家を四組に分け、一万石に対し30人を出させて、一組420人とした。
忠臣蔵で有名な赤穂の浅野家は、大名火消として名を馳せた。討ち入りの時に大石内蔵助ら赤穂浪士たちが火消装束であったのは、浅野家の家臣が夜中にその姿で市中にいても、誰も不審に思わないだろうと考えたからだという説もある。
大名火消には、幕府の重要な場所を担当する「所々火消」と、桜田門など江戸城の決められた方角に出ていく「方角火消」、臨時に命じられる「増火消」などの区別があった。
幕府に命じられたものだけでなく、各大名が自前の火消を設けることもあり、加賀前田家の火消である加賀鳶は、酒の銘柄にもなっているほど有名だった。
主に武家地を担当する火消だけでは、江戸の町は火事から守れないことが明暦の大火で露呈する。そこで、幕府は4名の旗本に火消屋敷と役料を与えて、消火活動を行うように命じた。これが定火消である。