<こういう馬鹿げた日本語論は、私たち「愛国的」日本人としてはとうてい受け入れがたい。>

 こう書く筆者は、言葉本来の字義での愛国者だ。パヨだのお花畑だのネットで騒いでいるネトウヨたちこそ、ぜひ、本書を手にとってほしいのだ。ウヨでもサヨでも、ネットに飛びかう日本語の品性下劣さ、不正確さにはあきれ返るばかりだ。正しく「愛国的」であるならば、日本語をもっと愛していいはずだ。

 もうひとつ。本書の大きな魅力になっているのは、ユーモアだ。ギャグではない。世におもねるエヘラエヘラ笑いでもない。人間の、威厳としてのユーモア。

 筆者は、ある文例をあげる。面白いことを書いているつもりの文章。わたしが読んでもちょっと気が滅入るような、自意識がすけて見えるしろものではある。むしろ気の毒になる、勘違いしてしまった文章。ここにはあえて引かないが、筆者は、引用に続けてこう書く。

<一言でいうと、これはヘドの出そうな文章の一例といえよう。>

 その例文の出どころは、朝日新聞の「声」欄であった。読者の投稿、つまり、素人さんである。そこまで言うか? マイク・タイソンが中学生に喧嘩を売っているような。それはないでしょ本多さんと、わたしなどは思うのだが、本人はいたって大まじめなのだ。こと文章については、手加減できないのだ。笑ってしまう。

 本多さんはかつてルポルタージュ『アラビアの遊牧民』を新聞に連載していた。

<最終節「アラビア半島の横断」は、ふつうの本の四ページ分くらいの長さだが、改行がひとつもない。最初このルポが新聞で連載されたときは、この節全体を一回ぶんとして圧縮し、原稿用紙(四〇〇字)で四枚程度だったが、やはり改行が全くなかった。>

 あなたはガルシア=マルケスか、クロード・シモンなのか? 当時の新聞整理部(原稿の受け手、編集者)から「改行を入れてくれ」と注文がついた。当然だと思う。筆者は断固拒否したと、憤慨している。その、大まじめさが、なんともおかしい。ユーモアがある。実験している。戦っている。

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